2017年11月27日月曜日

阿佐谷地域区民センターで仏像講座開催!


11月25日(土)午後1時から阿佐谷地域区民センター協議会主催の
仏像講座「仏像の観方・楽しみ方」が開催された。今年が5年目となる。
今回のテーマは「仏師と仏像 ~運慶・快慶を中心に~」

寺院や仏像に対して念頭にあるのは、いつ頃、誰が、何のために造立した
のだろうかと言うこと(発願者など)であり、制作者である仏師にまで
考えることはあまりない。

運慶・快慶の登場で、仏師への関心が一気に高まる。そこで、今回の
テーマは仏師にスポットを当てながら仏像の観方・楽しみ方を整理した。
(画像②)

①講座開講直後の会場     ②仏像の観方・楽しみ方 内容

1.飛鳥、白鳳、天平時代の仏師(画像③、④)
  飛鳥や白鳳時代の仏師はそれぞれの豪族に属し、各豪族が造立する
  寺院ごとに仏像を制作していたようだ。代表的な仏師として蘇我氏に
  所属する止利仏師が有名。大化改新で蘇我氏が滅ぶと、止利様式の
  仏像も見られなくなった。

  天平時代には官営工房が組織され、国家事業として仏像が制作された。
  国中連公麻呂は造東大寺次官であり、造仏長官に任じられている。
  仏師と言うより、官僚ではないだろうか。また、興福寺の阿修羅像はじめ
  とする乾漆像を制作した将軍万福も、この当時の仏師として有名。

  飛鳥~天平期の仏師は、いずれも「渡来系」と言うことが共通しており、
  技能者、技術者のイメージが強い。
③時代区分と代表的な仏師    ④飛鳥‐天平の仏師と作品

2.平安時代の仏師(画像⑤、⑥)
  官営工房が解体され、平安時代は多様な系統の仏師が登場する。
  密教の造仏に携わる仏師(東寺講堂の諸仏など)、天平の写実に対して、
  反写実的な造形をする仏師(神護寺や元興寺などの薬師如来)などと
  密教系や革新系の仏師も現れて来る。

  その後、僧名を名乗る仏師集団が工房を形成、10世紀末には康尚が
  大規模な私的工房を構え、講師(こうじ)と言う僧職にも就いた。
  
  白河天皇の造仏記録(画像⑦)を見ると、造仏界の慌ただしさ、仏師の
  活躍ぶりが想像できる。
⑤平安初期の造仏界       ⑥平安各期の造仏
⑦白河天皇の造仏記録

3.定朝と定朝正系三派(画像⑧、⑨)
  運慶・快慶に繋がる開祖的仏師と言えば定朝。そして、定朝正系三派が
  どのような系図となっているか示した。

  特に、平重盛による南都焼き打ち後の復興当初に活躍した仏師として、
  院派では院尊、円派では明円、そして慶派では康慶の名前が挙がる。
  これは、後程、東大寺や、興福寺の復興で一番活躍した仏師は誰か
  について専門家のご意見を紹介することと関係する。
⑧定朝正系三派の大仏師      ⑨慶派仏師の系統図

4.山本勉氏による運慶仏認定の基準(画像⑩)
  全国には運慶作と称する仏像をたくさん見かける。そこで、先ずは専門家
  が運慶作と認める仏像は何体あって、どんな基準で選ばれているのかと
  いう事を話した。現在13件31体となっている。
⑩山本勉氏 運慶仏認定基準

5.運慶仏発見トピックスの紹介(画像⑪~⑭)
  運慶仏は明治の中頃までは東大寺南大門の仁王像だけだったそうだ。
  それが、今や31体と数多く増えている。

  発見トピックスは神奈川仏教文化研究所のホームページに掲載された
  朝田純一氏の表を活用させて頂いた。
  合わせて、山本勉氏の基準に従い、(● ■ □ △)の表示を入れてみた。

  誰が、いつ、運慶仏発見をしたかの経緯が分かり、大変興味深い。
⑪運慶仏発見トピックスNo.1   ⑫運慶仏発見トピックスNo.2
 
⑬運慶仏発見トピックスNo.3   ⑭運慶仏発見トピックスNo.4

6.東大寺、興福寺の復興造像における運慶・快慶 (画像⑮~⑰)
  南都復興の造像担当者を見ると、慶派の仏師が目立つ。
  最大の功労者は誰かについて、群馬女子大学教授の塩澤寛樹氏が
  『仏師たちの南都復興』で論じている。それは、康慶や運慶では
  なく、院尊としている。ご興味のある方、理由を知りたい方は、
  ぜひ、ご一読をお勧めする。

  いずれにしても、南都復興が運慶・快慶が登場してくる大きな
  舞台となったことは間違いない。
⑮東大寺復興造営経緯     ⑯東大寺諸尊像制作担当

⑰興福寺復興 諸尊像制作割当

7.運慶・快慶の事績と南都復興(画像⑱、⑲)
  現存する運慶・快慶の作品の中で、一番最初と最晩年の作品に
  ついて言及した。
  運慶は、1176年制作の奈良・円成寺 大日如来坐像、1216年
  制作の神奈川・称名寺光明院 大威徳明王坐像となる。
  快慶は、1189年制作のボストン美術館所蔵弥勒菩薩立像、
  1221年制作の和歌山・光臺院 阿弥陀三尊像となる。

  南都復興に登場する人物、大勧進の重源上人、後白河法皇、
  源頼朝、後鳥羽上皇などとの関りも興味深い。
⑱運慶・快慶の事績No.1     ⑲運慶・快慶の事績No.2

8.運慶・快慶の事績に繋がる人たち(画像⑳~22)
  運慶作品は鎌倉幕府に繋がる人たちからの発願によるものが多い。
  一方、快慶は、重源上人の阿弥陀信仰同胞であり、重源上人が関連
  する寺院の造像が多く見られる。
⑳運慶仏と鎌倉幕府     21運慶仏と三浦一族
22重源の七別所
 
運慶・快慶に対する関心・興味は尽きない。今後、更なる発見がある
のではないかと期待して止まない。
 
運慶や快慶を知る上で参考となり、面白かった図書
 『ほとけを造った人びと』 (根立研介 吉川弘文館)
 『仏師たちの南都復興』 (塩澤寛樹 吉川弘文館)
 『運慶 リアルを超えた天才仏師』 (山本勉 他 新潮社)
 『運慶 その人と芸術』 (副島弘道 吉川弘文館)
 『運慶と鎌倉仏像』 (瀬谷貴之 平凡社)
 『日本美術全集7 運慶・快慶と中世寺院』 (山本勉 他 小学館)
 『日本仏像史講義』 (山本勉 別冊太陽)
 『大和路のみ仏たち』 (大橋一章、森野勝 グラフ社)
 『荒仏師 運慶』<小説> (梓澤 要 新潮社)
 その他 月刊誌 、特別展図録
 
 

2017年11月14日火曜日

東京国立博物館『運慶』展を観覧‼


東京国立博物館で開催の興福寺中金堂再建記念特別展『運慶』を
3度観覧した。1回目は個人で、2回目は荻窪東館・仏像サロンの
皆さんと、3回目は西荻窪のメンバーとご一緒した。

今年は、仏像ファンにとって必見の、大きな特別展が2つあった。
一つは、奈良博での『快慶』展。そして、東博の『運慶』展。
快慶展を観てのコメントは5月22日のブログにアップした。

快慶がほとけの様式美を追求した仏師なら、運慶は個性的で、リアル
な人間味溢れるほとけを追求した仏師のように思える。いわば、仏師
の枠をはみ出した前衛芸術家の側面がある。

運慶研究の第一人者である、清泉女子大学教授の山本勉教授によると
運慶仏は目下13件31体とされる。その中の22体が出展されて
いる。

今回の運慶展で特に印象に残ったことは・・・
1.奈良・円成寺、東京・真如苑、栃木・光得寺の大日如来坐像を
  順番に観覧できたこと。(画像①、②)
 
  先ず、運慶が一番若い時の作とされる、奈良・円成寺の大日如来坐像を
  真横から観た。やや後ろに傾斜気味に背筋を伸ばした姿勢が若々しい
  印象を持った。東京藝大の藤曲隆哉氏の研究によると、約4度後方へ
  傾けて像の高さを下げているとのことだ。そのような計算があったとは
  驚く。

  また、お顔の表情は年代を追うごとに笑顔になって行くように見える。
  像高は98.8㎝→61.6㎝→32.1㎝と徐々に小ぶりになっており、
  大きさに合わせて表情を変えているのだろうか。
  
  東博の出品目録では、真如苑像、光得寺像に運慶作の表示が無い。
  運慶展に出展されているにも関わらず、運慶作の認定をされないとは
  少し不思議に思う。また同時に、認定の難しさも理解できる。 
①大日如来坐像3躯    ②大日如来像の尊顔


2.静岡・願成就院と神奈川・浄楽寺の毘沙門天立像を比較しながら
  観覧できたこと。(画像③)
  
  館内での仏像配置に工夫がなされている。願成就院像の前に立つと、
  左手遠方に浄楽寺像が見える。敢えて対比できるようにされたと
  感じた。

  個人的には、願成就院像の方が、気に入っている。堂々とした風格
  は、東国武士のイメージにぴったりとしている。両腕の高さを同じに
  し、前に突き出していることで懐が深い感じがする。

  浄楽寺像の方が人間的な動きをしており、好きだと言う人もいる。
  好みの問題かもしれない。
③毘沙門天立像2躯

3.興福寺の無著菩薩・世親菩薩立像、東大寺の重源上人坐像の背面を
  眺められた。(画像④)

  展覧会の良さは、360度で観覧できること。今回特に、印象に残った
  のは高僧の背中。正面から拝観する表情は、老いた姿であり、いわば
  枯れた姿。(世親菩薩は枯れずに、エネルギッシュな印象)

  ところが、背中の印象は肉づきが良く、決して老人の背中でない。仏様
  として礼拝されるには、堂々とした大きさが求められるのかもしれない。
  運慶作に共通したボリューム感だろうか。

  重源上人の場合、特に正面と背面からの印象が全く違うように感じた。
④無著・世親像の背中と重源上人坐像

4.興福寺南円堂安置の四天王立像は本来、北円堂の像だと言う説が有力
  となっている。そこで、本展覧会では、北円堂の堂内を再現するように、
  無着・世親菩薩立像を囲むように現・南円堂四天王像が配置されている。
  興福寺では拝観することのことのできない諸像配置を、体感することが
  できる。 (画像⑤、⑥、⑦)
  
  興福寺北円堂造立時の記録である近衛家実の日記「猪熊関白記」に、
  「仏師は法印運慶」と言う記述があり、運慶作の確証となっている。

  また、北円堂本尊弥勒如来坐像の台座に、仏師名を記した銘記があり、
  本尊像、両脇侍像、四天王像、無著・世親像の制作担当者が判明した。

  南円堂本尊は康慶作の不空羂索観音立像。この本像を守護する四天王像
  は中金堂(現仮講堂)に安置の像らしい。この四天王像も出展している。 
  四天王像比較や、本来の北円堂再現は本展覧会の見どころの一つと
  なっている。
⑤興福寺南円堂本尊と四天王像  ⑥興福寺南円堂 本来四天王像か

⑦興福寺北円堂 本来四天王像か  ⑧北円堂 本来四天王像の本来配置か

  南円堂四天王像はカツラ材であり、北円堂本尊の弥勒如来、無著・世親像
  も同じカツラ材であり、同じ堂宇の像と裏づける要素の一つとなっている。
  (南円堂本尊の不空羂索観音坐像はヒノキ材)
 
  運慶展を特集した番組で、無著像と南円堂多聞天像をCTスキャンした時の
  映像が放映された。同じようにカツラの心木を使って寄木造りにしている
  ことも共通しており、益々運慶作となる可能性が高くなっていた。
  
  また、北円堂弥勒如来台座の銘記と、興福寺曼荼羅図に描かれた北円堂
  四天王像の像容と照らし合わせると画像⑧の通りとなる。⑦より⑧の方
  が、安定感があるように見える。
  
  即ち、南円堂で広目天となっている像→北円堂で持国天(湛慶担当)と
  なる。以下同様に、持国天→増長天(康運担当)、増長天→広目天
  (康弁担当)、多聞天→多聞天(康勝担当)となる。

  この四天王像を運慶仏とすると、山本教授認定の運慶仏は13件35体
  となる。

5.運慶最晩年の作、神奈川・光明院 大威徳明王坐像を間近に観ることが
  できた。(画像⑨)

  20㎝ちょっとの小像。大威徳明王坐像は、運慶個人が制作した仏像。
  運慶工房で制作された像の場合、運慶がどこまで関わったかは定かで
  ない。この小像なら、運慶が一人の作と思われるから殊更有難みが
  ある。

  運慶の生年を1150年頃とすれば、本像は66歳頃の作となり、
  円成寺の大日如来像を制作されてからちょうど40年後の作になる。

  ある学芸員の方が本像についてコメントしていた。「実に丁寧でノミの
  入れ方も巧み。特に下に付いていたはずの水牛との接着面のアーチ型の
  ラインを見るとしびれちゃいます。」専門家は目の付け所が違う。
⑨神奈川・光明院 大威徳明王坐像

6.湛慶作の京都・高山寺 善妙神立像に初めて拝見した。個人的に所有
  したい気持ちにさせる美しい女神だ。高山寺の山中に籠って、修行を
  していた明恵上人にとって、善妙神立像は祈りの対象であり、心の友、
  良き理解者あったと想像する。 (画像⑩)
⑩京都・高山寺 善妙神立像

この他、興福寺 仏頭、金剛峯寺 八大童子像、瀧山寺 聖観音などの感想
は別の機会にまとめたい。

明治時代の中頃までは、運慶作と考えられていたのは東大寺南大門の
仁王像だけだったと言う。文化財と言う概念ができたのも、明治30年の
「古社寺保存法」制定から。

運慶研究が進み、運慶作とされる仏像が年を追うごとに発見されている。
これから、どんな発見があるのか、楽しみが尽きない。
また、一方で運慶作と思われた像が、運慶作でないと明らかにされる
ことも起こる。いずれにしても、運慶から目が離せない。運慶は仏像ファン
にとって、生涯注目の的と言える。




2017年11月11日土曜日

雑司ヶ谷鬼子母神堂を参拝!


前日までの天気予報が嘘のように晴れ上がった日となった。よほど心掛けの
良い方が多いと思われる。地下鉄副都心線 雑司が谷駅10時に待ち合わせた。
駅ホームから地上出口まで距離も、高低差もあり、どこで待ち合わせたらよいか
多少戸惑った。10時前には12名が何とか揃った。

目指すは、鬼子母神堂。正式な漢字は「鬼」の頭に点が無い。角の無い鬼。
昨年7月に国の重要文化財に指定された建造物を眺めることが目的の一つ。
また、鬼子母神という神様も興味深い存在と言える。

雑司が谷駅から参道へ向かう   参道の入口重要文化財の表示

参道入口には大きなケヤキの木が、まるで参拝客を向かい入れるように立つ。
入口案内板には、国の重要文化財 鬼子母神堂始め、都や区の文化財も掲示
されていた。
鬼子母神大門ケヤキ    大門ケヤキ並木の解説板

鬼子母神大門ケヤキ並木は東京都指定天然記念物となっている。毎年10月に
行われるお会式(おえしき)には万灯行列が周辺を練り歩くようだ。今回ご参加
のお一人から「見応えのあるお会式」と推奨された。 

境内に立つ大公孫樹    樹齢600年公孫樹の大きさ

境内にも巨木が立つ。樹齢600年、高さ30メートルもある公孫樹。樹木が
多いと安らぎを一層醸し出す。境内は七五三のお参りをされる親子連れ
で賑わう。我々も七五三(七十代、五十代、三十代)が揃っていると軽口を
叩いた。

先ずは、本堂をお参りする。内陣は七五三の参拝者が多く、中に入ることは
控えた。ザクロが描かれた絵馬が多く奉納されている。ザクロは鬼子母神が
手に持つ吉祥果。ザクロは豊饒、多産のシンボルとされる。

鬼子母神堂           鬼子母神堂 内陣

鬼子母神堂を参拝する

雑司ヶ谷鬼子母神堂を重要文化財に指定された時の指定書がそのまま
石碑となっている。指定書を石碑にしてしまうとは驚く。そこまで必要か?

また、鬼子母神堂建立の経緯や、お堂の構成などは解説板を読むと、よく
分かる。現在の文京区目白台で掘り出された鬼子母神像を安置するために
雑司が谷の地にお堂が建立されたとのこと。

鬼子母神堂は、手前から「拝殿」「相の間(あいのま)」「本殿」の
3つの建物で構成されている。権現造り(ごんげんづくり)と言う。
重要文化財指定書の石碑    雑司ヶ谷鬼子母神堂解説板

見上げると屋根下に人物が見える。屋根を支える力持ち(力神)か?

 左手斜めから眺めるお堂      屋根下には人物が?
また、お堂の反対側に回ると、「南無妙見大菩薩」の幟が立っている。
鳥居を構えた小さな社があり、妙見菩薩を祀っている。妙見菩薩とは北斗七星を
神格化したもの。鬼子母神堂の境内には、神社、不動堂、大黒天堂と神仏習合
となっている。
 鬼子母神堂裏側には妙見大菩薩

参拝を済ませ、暫く境内を散策した後は、本堂を背に記念撮影。
次に向かう。雑司が谷案内処に立ち寄り、昼食にお勧めのお店を尋ねた。
鬼子母神堂前で記念撮影     参拝を終え、次へ向かう

雑司ヶ谷霊園を尋ねる前に昼食とした方が、お店も空いているだろうと
考えた。ご推薦の店「割烹 酉松」に到着。開店15分前にも関わらず、
直ぐに、着席できた。

味も、値段も、サービスも良く、大満足の昼食となった。
雑司が谷案内処お勧めの「酉松」で舌鼓

昼食後、雑司ヶ谷霊園で著名人のお墓をお参りした。
今回は尊敬するお二人。夏目漱石と金田一京助。

金田一京助のお墓には木が植えてあった。何の木だろうか?
国語の神様だから、菅原道真と同じ梅の木だろうと答えた。
夏目漱石の墓

金田一京助の墓      同左 墓誌
今日も一日、楽しく、こころ豊かに過ごすことができた。(合掌)