Ⅰ.百済観音の来歴
(A)1000年間記録なく、初記録は「虚空蔵菩薩」
百済観音像(❶)は謎が多い。史料に初めて登場するのが、
江戸時代、1698年(元禄11年)とのこと。百済観音の
造立が7世紀後半と推定され、1000年以上も記録が
無かったことになる。
❶百済観音像
像なり」と記されている。江戸時代は、百済から渡来した
インドの虚空蔵菩薩像となっている。どんな根拠があって
の記録だろうか?
(B)「観世音菩薩」の名称で国宝指定
1897年(明治30年)に日本の文化財保護に関する法律、
古社寺保存法が制定され、「観世音菩薩立像」の名称で、
国宝に指定される。
江戸時代は、虚空蔵菩薩と呼ばれていた像が観世音菩薩の
名前になった。この頃から百済観音と呼ばれたのだろうか?
(C)観音の標識、動かぬ証拠となる宝冠を発見
1911年(明治44年)、法隆寺で金銅製宝冠(❷)が土蔵
から発見された。宝冠の話を聞くと、童話「シンデレラ」の
ガラスの靴を連想する。宝冠がピッタリはまったことで、
持ち主が確定したストーリーは同じだ。
❷百済観音 宝冠の化仏
(D)百済観音は、誰が、何のために造立したか?
東京国立博物館研究員の三田 覚之(みた かくゆき)氏の解説
が興味深い。テレビ番組の「新 美の巨人たち」や月刊誌の
「時空旅人」でコメントされていた(❸、❹)。
結論は、片岡御祖命(かたおかのみおやのみこと)と言う
聖徳太子の娘、山背大兄王(やましろのおおえのおう)の妹
が百済観音造立の発願者ではないだろうかと言う解説だ。
理由は以下の通り。
法隆寺献納物の灌頂幡は、山背大兄王の追善供養のために
片岡御祖命が奉納したことが記録にある。百済観音の腕釧
(ブレスレット)のデザインや寸法が灌頂幡と同じであり、
同一人が奉納したと考えられる。
百済観音も灌頂幡と共に、山背大兄王の冥福を祈って、妹
の片岡御祖命が発願した可能性が高いとのことだ。
宝冠で、観音を裏付け、腕釧で造立発願者が特定できた。
装身具が歴史的事実を証明する貴重な物証となっている。
❸テレビ東京「新 美の巨人たち」 ❹時空旅人「法隆寺」
Ⅱ.百済観音の魅力・特徴
(E)和辻、亀井が百済観音から受けた衝撃
哲学者の和辻哲郎(1889~1960)は「古寺巡礼」中で、
抽象的な「天」が具体的な「仏」に変化すると表している。
文芸評論家の亀井勝一郎(1907~1966)は、対面した時の
感動を「大地から燃えあがった永遠の炎のようであった」
と表現している。
和辻は「天」、亀井は「大地」と言う語を用いている。共に
百済観音が宇宙の真理や恵みを具現しており、この世のもの
とは思えない程の存在と感じたのではないだろうか。
(F)百済観音は、痩身、八頭身の仏さま
像高が2mを越える長身、八頭身の体形は人間離れをして
いる。法隆寺所蔵の飛鳥仏3躯の比較をしてみた(❺、❻)。
聖徳太子等身大と言われる「釈迦如来像」や「救世観音像」
に比し、百済観音は、極めて長身であり、どなたかの等身と
は思われない。イメージでの造形ではないだろうか。
釈迦如来や救世観音が止利仏師や止利派によって製作され、
顔の表情が良く似ている。百済観音だけ、雰囲気が違う(❻)。
東京国立博物館の三田氏によると、蘇我氏が滅び、止利派
も一掃され、別の仏師集団が造立したのではないかと解説
されていた。
救世観音が、木造(クス)・金箔押しで金銅仏のような、
くっきりした印象を与える。一方、百済観音は木造(クス)
に乾漆を併用したためか、表情が茫洋としている。
木造乾漆併用の技法は、東寺講堂の立体曼荼羅の諸尊像
など平安初期に見られる技法だ。飛鳥時代に、その技法が
あったとは驚く。
❺飛鳥仏3躯の比較 ❻同左3躯のご尊顔
百済観音は1997年9月~10月、パリのルーブル美術館で
海外初公開されたのに続き、11月~12月、東京国立博物館
で特別展示された。この1997年は古社寺保存法制定されて、
文化財指定制度100周年に当たり、公開となったもの。
23年ぶりの特別展は、開会の準備が整っていながら、コロナ
により中止となってしまった。大変残念だ。一日も早い、終息
を願って止まない。