2021年6月9日水曜日

<神仏習合❷> 神々は山に坐(ま)す。仏はどこに坐すのか? 


神仏習合の前に、神や仏の存在についてまとめてみたい。神々しい山は
神が宿る霊山として古くから崇められる。また、八百万(やおよろず)
の神々の存在を信じる国民性がある。

最近の明るいニュースでは、ゴルフの松山英樹選手が「マスターズ」で
日本人初優勝を飾ったことが挙げられる。同時に、松山選手のキャディー
さんが取った行動が話題となった。

松山選手が優勝を決めた18番ホール、キャディーさんはピンをカップに
戻した後に、帽子を取ってグリーン上で一礼した。「何と礼儀正しい」
と各方面から賞賛の声が相次いだ。

この光景を目にした時、キャディーさんはグリーンの神様に「優勝させて
頂き、有難うございます」とお礼を言ったように思えた。

1.神々は山に坐(ま)す
  日本人には「神体山信仰」という信仰があるとのことだ。先に紹介の
  逵日出典著「八幡神と神仏習合」には、以下のように解説されている
  (❶にまとめた)
❶神体山信仰

  神様は、山頂の磐座や磐境に降臨されると考えられている。山自体が
  ご神体とされる。「神々は山に坐(ま)す」ことになる。

  古社中の古社とされる奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)
  は、ご神体が三輪山であり、本殿が無い。拝殿からご神体を拝む。

  自然と共に生きる神道では山に限らず、自然の創造物(太陽、水、雨、
  滝、風など)を神として崇める。恵みを与えてくれる反面、時には災い
  をもたらす畏怖すべき存在と捉えている。

2.仏はどこに坐(ま)すのだろうか?
  神仏を分けずに、一括りで捉えており、改めて仏はどこに存在するかと
  問われると、答えに窮するのではないだろうか。

  仏像を初めて目にした欽明天皇は「外国の神は、金色に輝いている」と
  驚天動地。(538年、または552年の仏教公伝)
  仏教がどういうものかは分からないで、神道を念頭にして考えれば、
  当然のことだ。

  神道が自然を相手に、自然と共に生きるのに対し、仏教は釈迦の教えに
  基づき、「悟り」を目指す宗教である。神道には教義が無いのに対し、
  仏教は教義がある。教義があるから、修行や行動の変容が求められる。

 ❶仏像は何のためにあるのだろうか
  仏像は、教義を象徴するもの、仏さまを象徴するもので、仏さまその
  ものではない。神が降臨する依り代(よりしろ)のように、仏が降臨
  する依り代と言う考えは当てはまらない。

  仏像は、仏教の二大テーマ「智慧」と「慈悲」をイメージさせる存在
  であり、礼拝者の仏心(ぶっしん)を共鳴、共振させてくれる。

 ❷仏はどこに坐すか?
  弘法大師空海は「般若心経秘鍵」で次のように言っている。
  「それ仏法は遥かにあらず、心中にしてすなわち近し。
   真如は外にあらず、身を捨てていずくにか求めん。」

  「そもそも仏の教えは、はるか遠くにあるのではなく、われわれの心の
   中にあって、まことに近いものである。
   さとりの真理は、われわれの外部にあるものではないから、この身を
   捨てて、どれにそれを求め得ることができようか。」

  「仏はわれわれの心の中に坐す」ことになる。誰にも「仏心」即ち、
  仏になる種は持っているそうだ。その種を育てることこそ、仏教の
  教えと心得ている。

<続く>