神仏習合の前に、神や仏の存在についてまとめてみたい。神々しい山は
神が宿る霊山として古くから崇められる。また、八百万(やおよろず)
の神々の存在を信じる国民性がある。
最近の明るいニュースでは、ゴルフの松山英樹選手が「マスターズ」で
日本人初優勝を飾ったことが挙げられる。同時に、松山選手のキャディー
さんが取った行動が話題となった。
松山選手が優勝を決めた18番ホール、キャディーさんはピンをカップに
戻した後に、帽子を取ってグリーン上で一礼した。「何と礼儀正しい」
と各方面から賞賛の声が相次いだ。
この光景を目にした時、キャディーさんはグリーンの神様に「優勝させて
頂き、有難うございます」とお礼を言ったように思えた。
1.神々は山に坐(ま)す
日本人には「神体山信仰」という信仰があるとのことだ。先に紹介の
逵日出典著「八幡神と神仏習合」には、以下のように解説されている
(❶にまとめた)
❶神体山信仰
神様は、山頂の磐座や磐境に降臨されると考えられている。山自体が
ご神体とされる。「神々は山に坐(ま)す」ことになる。
古社中の古社とされる奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)
は、ご神体が三輪山であり、本殿が無い。拝殿からご神体を拝む。
自然と共に生きる神道では山に限らず、自然の創造物(太陽、水、雨、
滝、風など)を神として崇める。恵みを与えてくれる反面、時には災い
をもたらす畏怖すべき存在と捉えている。
2.仏はどこに坐(ま)すのだろうか?
神仏を分けずに、一括りで捉えており、改めて仏はどこに存在するかと
問われると、答えに窮するのではないだろうか。
仏像を初めて目にした欽明天皇は「外国の神は、金色に輝いている」と
驚天動地。(538年、または552年の仏教公伝)
仏教がどういうものかは分からないで、神道を念頭にして考えれば、
当然のことだ。
神道が自然を相手に、自然と共に生きるのに対し、仏教は釈迦の教えに
基づき、「悟り」を目指す宗教である。神道には教義が無いのに対し、
仏教は教義がある。教義があるから、修行や行動の変容が求められる。
❶仏像は何のためにあるのだろうか
仏像は、教義を象徴するもの、仏さまを象徴するもので、仏さまその
ものではない。神が降臨する依り代(よりしろ)のように、仏が降臨
する依り代と言う考えは当てはまらない。
仏像は、仏教の二大テーマ「智慧」と「慈悲」をイメージさせる存在
であり、礼拝者の仏心(ぶっしん)を共鳴、共振させてくれる。
❷仏はどこに坐すか?
弘法大師空海は「般若心経秘鍵」で次のように言っている。
「それ仏法は遥かにあらず、心中にしてすなわち近し。
真如は外にあらず、身を捨てていずくにか求めん。」
「そもそも仏の教えは、はるか遠くにあるのではなく、われわれの心の
中にあって、まことに近いものである。
さとりの真理は、われわれの外部にあるものではないから、この身を
捨てて、どれにそれを求め得ることができようか。」
「仏はわれわれの心の中に坐す」ことになる。誰にも「仏心」即ち、
仏になる種は持っているそうだ。その種を育てることこそ、仏教の
教えと心得ている。
<続く>