2019年3月4日月曜日

「空海と所縁の寺院・仏像・曼荼羅」(Ⅱ)


2月23日『阿佐谷地域区民センター開催の講演会
空海と所縁の寺院・仏像・曼荼羅)』について、
第2回リポート。前号(2月25日)に続く。

2.空海の交遊録(❼)
  交遊グループは、「親類縁者」「交流・対立の僧」「師」
  「遣唐使関連」「援助協力者」「十大弟子」の6グループ
  に分類。(週刊朝日百科掲載分から作成)

  空海は、誰もが認める天才。また交遊を見る限り、強運の
  持ち主であったと思われる。様々な人たちの出会いによって
  弘法大師・空海となって行った。

  先ずは、天皇・皇室との交流(❽)と空海十大弟子(❾)に
  ついて見て行く。日本仏教界の両巨頭、最澄、空海の関係は、
  別途改めて取り上げたい。
❼空海の交遊録 

  空海と同時代の天皇は第50代桓武天皇から第54代仁明天皇。
  その中で、特に深い繋がりがあったのは、第52代嵯峨天皇。
  嵯峨天皇がいなかれば、空海も、これほど大きな足跡を残す
  こともできなかったのでは?(各天皇と関わる空海の事績は
  ❽の通り)

  空海との関りにおいて特筆することは~
  第50代 桓武天皇・・遣唐使として派遣。
  第51代 平城天皇・・薬子の変の後、出家し空海に帰依。
             高岳親王は空海に弟子入り、十大弟子に。
  第52代 嵯峨天皇・・高野山、東寺を下賜。大覚寺開基。
  第53代 淳和天皇・・勅に答えて「秘密曼荼羅十住心論」著す。
             恒貞親王が大覚寺開山となる。
  第54代 仁明天皇・・宮中に真言院設置。後七日御修法を勅許。
  第59代 宇多天皇・・仁和寺開創。最初の門跡寺院。
  第60代 醍醐天皇・・醍醐寺を自らの祈願寺。弘法大師の諡号。

ここで注目することは、第54代仁明天皇の時に勅許された
後七日御修法(ごしちにちのみしほ)。これは、宮中真言院にて
1月8日から14日まで、「国家安泰」「玉体安穏」「五穀豊穣」
「万民豊楽(ばんみんぶらく)」を祈る行事。

空海によって始められたこの修法は一時、中断の時があるものの、
明治の廃仏毀釈によって廃止されるまで続いたそうだ。この歴史を
見ても、歴代天皇がいかに仏教を重んじていたかが良く分かる。
天皇は仏教徒であると言われる理由が理解できる。
❽天皇・皇室との関り

次に空海 十大弟子(❾)と真言宗の系譜(❿)について触れたい。
空海の付法弟子とされる十人は、真雅(しんが)が朝廷への言上に
よって確定した。

真言宗系譜において醍醐寺、仁和寺の存在は大きい。小野六流、
広沢六流で野沢十二流(やたくじゅうにりゅう)と言う真言宗
の各派へ繋がる。系図を見て分かるように、空海ー真雅の流れ
から出ている。真雅の存在が大きい。
❾空海 十大弟子

空海が恵果阿闍梨から伝法灌頂を受け(❿)、正式な後継者と
なる。千人もの弟子の中から選ばれたと言われる。なぜ、日本人
空海なのかとの疑問もわく。

恵果阿闍梨は、金剛智、不空から系譜から金剛界曼荼羅を、
善無畏、一行の系譜から胎蔵界曼荼羅を受け継ぐ。いわば
インド人から中国人へ伝えられた。次に、恵果は、日本人
の空海を、積極的に望んだのではないかとも想像される。

❿真言八祖と系譜

次回は、空海所縁の寺院について話した内容をリポートしたい。



2019年3月1日金曜日

日野市万願寺の安養寺を参拝!


2月28日(木)雨天の中、西荻グループの8名が日野市万願寺に
ある安養寺を訪れた。多摩モノレール「万願寺駅」に10時集合。
駅から一直線に進むこと、徒歩7分。前方に門柱(❶)が見える。

門柱には「真言宗智山派 田村山安養寺」と刻まれている。赤い
幟旗には「毘沙門天王」と書かれている。もう一方の門柱には、
多摩四国八十八ヶ所」「日野開運七福神」の文字が見える。

更に進むと、「田村山」の扁額が掛る山門(❷)に着く。門には、
関東八十八ヶ所霊場 第六十八番」と記されている。門前に立つ
石柱には「都指定有形文化財 木彫 阿弥陀如来坐像」の表記。

本堂と毘沙門天像は、日野市教育委員会の掲示板(❸、❹)記載
の通り、市指定有形文化財となっている。

安養寺は二つの霊場札所であり、七福神巡りの寺院にもなっている。
文化財としても阿弥陀三尊像が都指定、毘沙門天立像本堂が市指定
を受けており、信仰、文化財両面で、人を引き寄せるお寺と言える。
❶門柱            ❷山門

❸安養寺本堂の解説     ❹毘沙門天像の解説

山門を通り、境内に入ると、右手に修行大師像(❺)を目にする。
錫杖と鉢を持つ姿は、弘法大師像の中でも、代表的なスタイルだ。
先ずは、皆さん、お大師様を礼拝した。正面の本堂には文字が右から
左へ「安養寺」と書かれた扁額が掛っている。

幹事の井戸さんが参拝を予約されていた。来訪の旨を告げると、直ぐ
本堂へ案内された。
❺境内に立つ弘法大師像   ❻「安養寺」扁額の掛る本堂

本堂は、ガスストーブで既に温められていた。ご住職のお心遣いが
有難い。本堂外陣に並べられた椅子に、着席し、ご住職の懇切丁寧な
ご説明をじっくりお聴きした。

お話は安養寺の縁起や本堂の造立年など多岐にわたる内容を丁寧に
解説された。本堂改修のための解体によって、護摩壇の製造年を
示す墨書が分かり、本堂造立年の推定に繋がるお話は大変興味深い。

ご本尊の阿弥陀如来坐像は、前身の万願寺ご本尊であったようだ。
その万願寺は地名として残るものの、遺構は残っていない。現在
安養寺は、高幡不動尊金剛寺の末寺となっている。

須弥壇の前には護摩壇があり、間にはシャッターが下りるように
なっている。シャッターが下りると、須弥壇上の三尊像がすっぽり
収蔵庫に収められる構造になっている。ご本尊として祀ることと、
文化財として保護することの両立を図る工夫がなされていた。

いよいよご本尊を間近で拝観する。三尊像とも光背が付いている。
揃って光背があるのは珍しく、安養寺式舟形光背と呼ばれている
とのご説明があった。この光背が三尊像を一層引き立てている
ように感じた(❼)。
<画像は、いずれも安養寺で購入の冊子から>
❼本堂の阿弥陀三尊像

阿弥陀如来像の端正で、穏やかなお顔は、礼拝者に安心感を与える。
制作年代は11世紀後半頃で、一木造りから寄木造りに移行する
初期の頃。関東における重要な作品になっているとのことだ。本像
はヒノキの寄木造り、内側にも漆を塗布。像高は90cm。(❽)
❽阿弥陀如来坐像

前傾姿勢を取る観音・勢至菩薩像(❾❿)には頭上を覆うよう
な光背が付いている。金泥塗りのように渋く輝く金色が何とも
言えない有難みを感じさせる。

蓮台を捧げ持つ観音(蓮台は逸失か)と合掌する勢至の姿勢は
オーソドックスなスタイル。享保年間(18世紀前半)の作で
ヒノキの寄木造り。
❾勢至菩薩 ❿観音菩薩

須弥壇の向って右隅に毘沙門天立像が三尊像を守護するように
安置されている(⓫)。毘沙門天像に関連することを、ご住職が
詳細に解説された。

聖徳太子が蘇我氏側に付いて、物部氏と戦う際に、信貴山で戦勝
祈願をした。すると、毘沙門天が出現し、勝利へ導いてくれた。
そこで、毘沙門天を祀った。合わせて毘沙門天が出現した日時が、
「寅年、寅の日、寅の刻」であったことから寅(虎)も祀った。

堂内に張り子の虎が沢山置かれている理由が分かった。また、
真珠湾攻撃の暗号「トラ トラ トラ」が毘沙門天出現の説話
から取ったということも初めて知った。

「この毘沙門天立像は、平泉・中尊寺金色堂の持国・増長二天像
に近いものがあり、平安末期から鎌倉初期に制作されたことを
伺わせる」と言われている。ヒノキ寄木造り、像高123cm。
⓫毘沙門天立像

ご住職の石黒忠雅様は、福田亮成先生(大正大学名誉教授)から
ご指導を受けたことを知った。福田先生主宰の空海研究会で学習
していることをお伝えした。不思議なご縁を感じ、話が更に弾む
こととなった。

本堂の横にある位牌堂の扉を開けて、中をお見せいただいた。
歴代住職の位牌始め、多くの位牌が並んでいた。正面には智拳印
を結ぶ大日如来坐像(⓬)が鎮座。小ぶりの像ながら神々しさを
感じさせる。

位牌堂の前には、重さ500㎏のグランドピアノが置かれている。
定期的に本堂でコンサートを開かれているとのこと。安養寺が、
地域の人々が集まるコミュニティとなっている。
⓬大日如来坐像

お時間があるならと、地下室のホールにも案内された。
さながら、コンサートホールのようだ。部屋には金色に
輝く千手観音菩薩立像(⓭)が安置。
⓭千手観音立像

楽しく過ごすも、すでに12時近くなり、名残惜しく、退出した。
機会があれば、また訪れ、ご住職のお話をお聴きしたい。
⓮参拝し、本堂を出る    ⓯本堂を背に記念撮影

立川駅に戻り、駅ビルのレストランで歓談昼食。今回も充実
した見仏会となった。感謝(合掌)


2019年2月25日月曜日

「空海と所縁の寺院・仏像・曼荼羅」(Ⅰ)


2月23日(土)14時~16時、阿佐谷地域区民センターにて
仏像の観方・楽しみ方講演会が開催された。

60名の定員に110名を超える応募があったとのこと。当日の
参加は70名を超えた。欠席者は当選通知者2名だけとのこと。

阿佐谷地域区民センターでの仏像講演会は2013年に開始し、
6年間で、12回目となる。毎回、大勢のご参加があり、講師
冥利に尽きる。

今回のテーマは「空海と所縁の寺院・仏像・曼荼羅」(❶)。
仏像は密教寺院に名品が多い。密教と言えば空海であり、また、
曼荼羅が浮かぶ。

そこで、仏像だけでなく、空海の事績や思想にも言及したい。
浅学菲才であり、誤った解釈や誤解を招く表現があった場合
は、ご容赦頂きたい。
❶講演会テーマ
講演会場の様子は❷、❸の通り。
❷会場の掲示       ❸講演会の様子

今回の内容を、何回かに分けて、アップしたい。先ずは、空海年表
で足跡を辿りたい。空海の著作、時代背景の出来事も記載した。
空海の言動は、同時代の著作を照らし合わせると、その意味する
が良く理解できる。

1.空海年表(❹、❺、❻)
  今回、注目した著作は3作。
  「聾瞽指帰(ろうこしいき)」(24歳作)、
  「弁顕密二経論(べんけんみつにきょうろん)」(42歳作)、
  「秘密曼荼羅十住心論(じゅうじゅうしんろん)」(57歳作)。

  母方のおじ、阿刀大足(あとのおおたり)に学ぶため、15歳
  で上京する。18歳で大学の明経科(みょうぎょうか)に入学。
  阿刀大足は、伊予親王(桓武天皇の皇子)家庭教師をしており、
  空海には、天皇と接する機会があったに違いない。

  大学は、官吏になるための勉強であり、空海は満足せず、疑問
  を感じていた。ある僧から「虚空蔵求聞持法(こくうぞう
  ぐもんじほう)」を学び、山間や海岸の洞窟で修行に励む。

  24歳で書いた「聾瞽指帰」は出家宣言の書と言われている。
  儒教、道教、仏教の中で一番優れているのは何かを論じている。
  改訂版が「三教指帰(さんごうしいき)」と呼ばれる。

  儒教は、ただ単に現実を肯定し、処世術を教えるに過ぎない。
  道教は、現実に面と向かわず、斜に構え、虚無に逃げている。
  現実とは何か。人間が生きることは何か。この世とは何かを
  本当に問うているのは仏教だと、空海は考えた。

  目標の大きさ、志の高さにおいて仏教が一番と判断したもの
  と思われる。佐伯真魚(さえきのまお)から空海への変身。

  空白の7年を経て、遣唐使となった空海は、唐の恵果阿闍梨
  から密教の奥義をすべて伝授され、遍照金剛となる。そして、
  20年の留学期間をわずか2年で切り上げて帰国する。
❹空海年表① 

  帰国した空海は、新天皇となった平城天皇から入京が許されない。
  唐から請来した経典・仏具・仏像・仏画などの一覧「御請来目録」
  を作成し、朝廷へ提出した。目録の巻紙は長さが10mにもなる
  と言う

  この目録に一番驚いたのは、最澄ではないかと言われる。最澄こそ
  その価値を一番理解していた。最澄は、桓武帝の頃から、当代随一
  の高僧とされていた。

  天皇が平城から嵯峨に代わり、事態が一変し、空海の入京許可が
  下りる。空海と嵯峨天皇の交流が始まる。早速、乙訓寺の別当に
  任命された。最澄は乙訓寺の空海を訪ね、弟子入りを申し出る。

  何という出会いか。最高峰の僧が、弟子入りを請うとは、どの
  ように解釈したら良いことか。最澄の向学心や、謙虚で誠実な
  態度は心を打つ。実直な最澄に好感が持てる。

  空海は快諾し、高雄山寺(後の神護寺)で金剛界、胎蔵界の
  灌頂を授ける。その後、二人の間に溝が出来始める。そこで
  注目の著作が、42歳の空海が書いた「弁顕密二経論」。

  密教と顕教の違いやその優劣を論じた書であり、空海、最澄
  がなぜ対立することとなったかが分かる。教義のすべてが、
  経典に書かれている顕教と、言葉では伝えられない奥深い
  ものがあるとする密教では大きな違いがある。

  経典により修得することを良しとする最澄に対し、経典を
  離れて、修行による体得が必要とする空海であり、両者の間
  には立場の違いが生じた。

❺空海年表②

  次に、注目した著作は57歳の作「秘密曼荼羅十住心論」。
  簡略したものが「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」。この著作
  は、淳和天皇から各宗に対し、「それぞれの宗義を書いて差し
  出すよう」勅命が下され、応える形で、提出されたもの。

  十住心論とは心の発展段階(悟りへの段階)を10の段階に
  分け、最高位の第十秘密荘厳住心が真言宗とした。即ち、
  煩悩にまみれた心から、儒教、道教、仏教に目覚めた段階、
  更には仏教各宗を各段階に割り当て論じている。
❻空海年表③

  空海思想の足跡を辿るとき、「聾瞽指帰」「弁顕密二経論」
  「秘密曼荼羅十住心論」で思想展開が明確に分かる。
  儒教、道教より仏教、仏教では顕教より密教、更には、全体
  を10の段階に分け、真言密教を最上位と位置づけた。

  このランクづけは、さすがに他宗派から激しい抗議があった
  と聞いている。

  次回は、空海の交流について報告する。



2019年2月16日土曜日

中島憲子さん「檀像」について発表!


2月15日のBAC定例会において、中島憲子さんが「檀像」
について発表された。
発表される中島さん     発表を聴く参加者

インドの優填王(うでんおう)が香木で釈迦像を造った。その木が
インドでは「栴檀(せんだん)」と呼ばれた。中国では唐代から
「白檀(びゃくだん)」と呼ばれるようになったとのこと。

続いて、白檀の材質や白檀で作られた仏像「檀像」の説明があった。
また、白檀を産出しない中国、日本で代用材として使われた木材は
一覧表にして解説(①)

一通り、話された後、画像をスクリーンに映し、檀像を紹介された。
(解説付きの画像は②~⑫の通り)

十一面観音神呪心経義疏で規定されているためか、檀像の観音像が
多いように思える。(②、③、⑤、⑥、⑦、⑧)

諸尊仏龕 は律令国家が大極殿などで行う最大の国家仏事の本尊に
白檀仏龕 が迎えられていたそうだ。また、天皇や貴人の念持仏
とされたようだ。(④)
①代用材の一覧     ②東博・十一面観音立像

③法隆寺・九面観音立像    ④金剛峰寺・諸尊仏龕 

⑤海住山寺・十一面観音立像 ⑥奈良博・十一面観音立像

⑦法隆寺・如意輪観音坐像 ⑧小松寺・浮彫如意輪観音坐像

⑨仁和寺・薬師如来坐像 ⑩東寺・兜跋毘沙門天立像

⑪清涼寺・釈迦如来立像 ⑫宝菩提院・菩薩半跏像




2019年1月8日火曜日

2019年 新宿山ノ手七福神めぐり


1月5日(土)9時30分、地下鉄丸の内線の荻窪駅改札口に集合し、
新宿山ノ手七福神めぐりを開始する。参加者は総勢36名と、過去
最多人数。今年で7回目(7年目)の七福神めぐりとなる。

お蔭さまで、天候にも恵まれ、穏やかな温かい日和となった。先ずは、
丸ノ内線で新宿御苑前駅まで行き、太宗寺から巡拝スタート。
6グループに分かれ、移動の都度、人数確認をお願いした。

1.太宗寺(たいそうじ)
  太宗寺は新宿御苑前駅から徒歩2分。境内でストレッチ(①)、
  七福神めぐりに備えた。太宗寺の七福神「布袋尊(和尚)」
  (②)を参拝。

  不動堂に、不動明王と同居されているのが、不思議に感じる。
  布袋和尚は中国出身の禅僧。実在の人物であり、弥勒菩薩の
  化身と言われている。

  太宗寺は浄土宗の寺院。僧・太宗が開いた草案「太宗庵」が前身
  であり、内藤氏の寺地寄進によって太宗寺が創建となった。

  浄土宗寺院に、密教のお堂の不動堂があったり、不動堂の中に
  禅宗の布袋尊が鎮座されたりと、大変興味深いお寺と言える。 

  参加者揃って記念撮影(③)をし、次の七福神に向った(④)。 
①太宗寺境内でストレッチ   ②太宗寺は布袋尊(和尚)

③参加者揃って記念撮影  ④稲荷鬼王神社へ向かう

2.稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)
  靖国通りを右折し区役所通りに入る。直進すると、稲荷鬼王神社が
  右手に、見えて来る。境内は狭く、御朱印を待つ人で賑わっていた。
  七福神の「恵比寿神」を参拝(⑤)。恵比寿神は日本古来の神。

  鬼の名の付く神社も珍しい。由緒を見ると、大久保村の氏神であった
  稲荷神と熊野から勧請された鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社となる。
  「鬼王」の名を持つ日本唯一の神社だそうだ。

  干支の由来に関する解説板(⑥)が目を引いた。今年の干支「亥」は
  大変興味深い。「見た目の変化や声高に主張することは吉ならず、
  慢心を抑え内部の力を充実させ、自分のあるべき場所で力を使うこと
  が『吉』とある。肝に銘じておきたい。

  区役所通りから右折し、職安通りを東へ進む(⑦、⑧)。3番目の
  七福神は永福寺。
⑤七福神は「恵比寿神」   ⑥神社に伝わる干支由来

⑦次に向かうは永福寺   ⑧職安通りを東へ進む

3.永福寺(えいふくじ)
  山門に福禄寿の幟旗が見える(⑨)。福禄寿は境内の小さなお堂に
  祀られている(⑩)。福禄寿は七福神の中でも、特に縁起の良い
  名前を持つ。「幸」「封」「長寿」の御利益に預かれそうだ。

  永福寺は曹洞宗の禅宗寺院。境内には金銅仏の大日如来像と地蔵
  菩薩像が並んでいる(⑪)。密教の金剛界大日如来像がなぜ鎮座
  されているのだろうか? 疑問を持ったまま、次の七福神へ向かう。
⑨永福寺に到着      ⑩七福神は「福禄寿」

⑪境内に金銅仏の大日如来と地蔵菩薩

4.厳嶋神社(いつくしまじんじゃ)
  職安通りで出ると、「山ノ手七福神 抜弁天厳嶋神社」の提灯
  (⑫)が目に入る。小さな社に祀られた弁財天を参拝(⑬)。

  厳嶋神社の縁起や抜弁天の由来は解説板(⑭)に記されていた。
  源義家が奥州征伐をこの地で祈願し、鎮定後、お礼に建てたのが
  厳嶋神社。御祭神は市杵島姫尊(いちきしまひめのみこと)で
  あり、弁財天と習合して、七福神として祀られている。

  それにしても、源義家は何と義理堅いことかと感心する。抜弁天
  とは「参道を通り抜けると苦難を切り抜けた」とする庶民信仰が
  由来とのこと。

  厳嶋神社の塀にはこのエリアの七福神を祀る寺社の地図(⑮)が
  掲示されていた。次は法善寺。
⑫抜弁天・厳嶋神社の提灯    ⑬七福神は「弁財天」

⑭厳島神社・抜弁天の解説 ⑮近辺所在の七福神ご案内

5.法善寺(ほうぜんじ)
  直ぐ近くに法善寺がある(⑯)。日蓮宗の寺院。七福神で祀る
  のは寿老人(⑰)。七福神の中で、一番印象の薄い存在では?
  なぜなら、福禄寿と重なる部分があり、福禄寿の陰に隠れた
  存在となっている。

  寿老人は、福禄寿同様に中国出身で、道教の神。長寿は一番の
  願いだから七福神に二人も揃えていると理解した。次は経王寺。
⑯法善寺に到着      ⑰七福神は「寿老人」

  スタートしてから大分歩いた。ここから、地下鉄利用コースも
  準備しておいた。しかしながら、地下鉄に乗車された方は数名
  だけ。皆さんの健脚ぶりに驚いた。

6.経王寺(きょうおうじ)
  大江戸線牛込柳町駅のすぐ前に経王寺はある。「大黒天」の
  赤い旗が一際目立つ(⑱)。階段を登り、右手のお堂に鎮座
  されている(⑲)。

  お参りの後、御朱印を頂く。若い女性が受付し、奥でご住職
  と思われる年配の男性が次から次へと揮ごうされていた。

  写真撮影禁止の張り紙があり、撮影はできない。お堂の前に
  小さな露座の大黒天像(⑳)は、フォトジェニック。

  大黒天はインド出身。神社では大国主命が音読みでダイコク
  となることから、大黒天と同一視され、大黒天として祀られる
  ことも良くある。

  なお、経王寺は、日蓮宗のお寺であり、開山のお坊さんが、
  大黒天像を身延山久遠寺から移して創建されたとある。

  参拝を終えた人は、階段の下で待ち(21)、全員揃ったのを
  確認して、最後の善国寺に向った(22)。
⑱階段下に大黒天の幟旗   ⑲七福神の「大黒天」を参拝

⑳境内に大黒天の小像   21参拝を終え、階段下で待つ

22最後の七福神へ向かう
7.善国寺(ぜんこくじ)
  大久保通りを進み、早稲田通りとの交差点を右折すると神楽坂
  通りに入る。直ぐ右手に善国寺がある。通りも賑わい、お寺も
  賑わいとなっていた(23)。

  境内の掲示版(24)によると、善国寺の毘沙門天像は加藤清正
  の守り本尊であったこと、開山となった僧が、関白から贈られ
  た像を、安置した像とある。

  参拝を終え、またもや全員揃って記念撮影(25)。時刻も午後
  1時、新宿山ノ手七福神めぐりも成就できた。ご参加の皆さん
  の無病息災、家内安全、諸願成就、世界平和を祈りつつ、散会
  とした。(合掌)

  頂いた御朱印(26)は荻窪東館で1年間大事にお守りする。
23七福神の毘沙門天を参拝  24善国寺の毘沙門天像解説
25七福神めぐり成就の記念撮影 26新宿山ノ手七福神めぐり御朱印

大勢のため、昼食は分かれて頂くこととした。参加者のお一人、Kさん
ご推薦の店に17名も入ることができた(27、28)。ご一緒させて頂き、
歓談しながら、舌鼓を打った。来年はどこの七福神?
27参加者ご推薦のお店で舌鼓  28シェアして頂き、話も弾む