2022年5月6日金曜日

松濤美術館で奈良国立博物館コレクションを観覧!

 5月5日(木・祝日)、渋谷区立松濤美術館を訪れた。「SHIBUYAで仏教美術」
と銘打って、奈良国立博物館名品の展覧会が開催されている。10時~10時30分
の枠で予約しておいた。10時10分前に到着すると10数名が開館を待っていた。

時間なると入口で予約内容を確認を受け、入館した。60歳以上は入館料500円と
言われ、何か得したような気分になった。予約していない方も直ぐ入館できた。

❶展覧会案内(表面) ❷展覧会案内(裏面)

展示は2部構成で、第1部『日本の仏教美術の流れ』、第2部『珠玉の名品たち
ーまほろばの国から』となっている。会場も地下1階と地上2階の2か所。展示
作品は第1部が34件、第2部が22件と程良い数と感じた。(前期の出品数)

第1部では、観覧後に日本の仏教美術を復習した感覚になった。仏教美術の流れ
を大きく捉えるのにちょうど良い企画であったように思う。第1部は5章で構成。
①釈迦の美術、➁密教、③浄土信仰、④神仏習合、⑤絵巻となっている。

仏教美術における密教の存在は大きい。密教彫像や曼荼羅が仏教美術に与えた
影響は計り知れない。空海は信仰面だけでなく美術史面においても大きな足跡
を残した。本展覧会において18件と出品数が一番多い。第1部出品数の過半数
は密教の作品が占めている。
❸出品リスト(表面) ❹出品リスト(裏面)

第2部『珠玉の名品たちーまほろばの国から』は①仏像、➁書、③工芸品の3章で
構成されている。仏像はわずかに4躯のみではある。しかし、飛鳥、奈良、鎌倉
の時代的特徴が良く分かる。

書で注目したのは、重文の『兀庵普寧墨蹟(ごったんふねいぼくせき)』。この
兀庵普寧は建長寺の第2世で南宋の僧である。墨蹟の見事な達筆ぶりに感心した。
「ごたごた」(争い・もめごとや雑然としている意で使われる)の語源となった
人物が兀庵和尚とも言われる。「ごたごた」と程遠い墨蹟だ。

工芸品では五鈷鈴。鈴の部分に彫像がある。「四大明王五鈷鈴」「梵釈四天王
五鈷鈴」「五大明王五鈷鈴」「四天王五鈷鈴」と展示されていた。このように
五鈷鈴を一度に見るのは初めてだ。ここでも密教の法具が大きなウエイトを占
めている。

観覧時間は40分あれば、充分堪能できる。観覧後、久方ぶりに渋谷でランチを
頂いても12時前に終え、時間を得したように感じた。






2022年4月6日水曜日

東博特別展「空也上人と六波羅蜜寺」観覧記

4月3日(日)久方ぶりに東博(東京国立博物館)を訪れた。10時前後に到着
すると、入口付近には長蛇の列ができていた。なぜこれほど混むのだろうか?
平成館での特別展「ポンペイ」が最終日だったからだと分かった。

本館での「空也上人と六波羅蜜寺」は直ぐに入場できた。10時30分から11時
30分の枠での観覧指定を受付で渡された。会場内には多くの人がいるものの、
観覧に支障は無く、充分堪能できた。

展示件数は17件であり、音声ガイドを聴きながらの1時間観覧にちょうど良い。
また、総合文化展(本館11室)で関連する展示コーナーが設置されおり、二度
楽しむことができた。観覧しての感想を5つの視点で観覧記にまとめた。
(画像は図録と内覧会レポートから)

1.特別展の主役「空也上人立像」(❶)
 空也上人立像は今から10年前、六波羅蜜寺を参詣した際に実物を拝観した。
 口から南無阿弥陀仏の仏が飛び出す造形はユニークであり鮮明に覚えている。

 作者は運慶の四男・康勝(こうしょう)とされる。空也上人没後250年ほど
 の時に制作された。口から出る仏、細身の身体、曲がった腰などは口称念仏
 (くしょうねんぶつ)の遊行僧(ゆぎょうそう)をリアルに造形している。

 康勝は東寺御影堂の国宝・弘法大師坐像の作者でもあり、高僧の精神性まで
 表現する卓越した技量の持ち主と言える。

 空也上人没後1050年を記念しての特別展であり、空也上人は六波羅蜜寺の
 開山(厳密には改名前の前身寺院、西光寺開山)である。

❶空也上人立像

2.東寺講堂像と酷似の持国天像
 空也上人は972年に亡くなり一周忌に著された伝記を「空也誄(くうやるい)」
 と言う。誄(るい)とは死者の生前の功徳を讃えてその死を悲しむこと、また
 その文章を言う。

 空也誄によると天暦5年(951年)、空也上人は寺院創建時に観音像、梵釈像、
 四天王像の7体を造像したとあり、その四天王像が今回展示の像である。ただ
 し、増長天像は、鎌倉時代の後補(❷、❸)。また観音像は現在の本尊である
 秘仏十一面観音像に該当する。

 今回注目したのは、四天王像の中の持国天像。東寺講堂の持国天像に酷似して
 いる。東寺像の模刻ではないかと言われるほど似ている(❸)。両像を結びつ
 ける何かがあるのではないだろうか。
❷寺院創建時の四天王像    ❸酷似した持国天像

3.伝説の人物彫像3体(❹、❺、❻)
 六波羅蜜寺には「伝〇〇〇像」と呼ばれる有名人物の像が3体ある。即ち、
 平清盛像、運慶像、湛慶像である。平氏の邸宅があったのが六波羅の地で
 あり、清盛像が造像されるのは理解できる。しかし、源氏の時代に入って
 なぜ清盛像を造る必要があったのだろうか?鎮魂のためだろうか。清盛像
 には謎が多い。
 
 運慶、湛慶の慶派仏師は平家滅亡後、源氏の時代になって台頭して来た。
 慶派仏師は六波羅蜜寺の造像を多く手掛けており、運慶像、湛慶像が制作
 されても不思議ではない。運慶像は、子の湛慶が制作、湛慶像は湛慶の子
 康円が制作した可能性が高いとのことだ。(❿の系図参照)
❹伝平清盛坐像      ❺伝運慶・湛慶坐像

4.閻魔王と地蔵菩薩
 六波羅の地は葬送の地、鳥辺野(とりべの)の入り口にあたり「あの世」と
 「この世」の境界とみなされていた。死後の世界を身近に感じ、閻魔王を始
 めとする十王思想が広がるのは自然の成り行きと言える。

 冥界の裁判官である閻魔王に対し、救済者としての地蔵菩薩に救いを求めた。
 六波羅蜜寺に閻魔王像や地蔵菩薩像が安置されているのは、土地柄も大きく
 影響していると思われる(❻、❼、❽)。

 定朝作の可能性が高い地蔵菩薩立像(❼)と運慶作の地蔵菩薩坐像(❽)を
 比較すると、制作時代の違いが良く分かる。側面から胸の厚みを眺めると、
 一目瞭然。定朝作が貴族好みの華奢な感じなのに対し、運慶作は武士好みの
 ボリューム感があった。
❻閻魔王坐像

❼地蔵菩薩立像       ❽地蔵菩薩坐像

5.六波羅蜜寺の仏像と慶派仏師
 関連展示の弘法大師坐像(❾)は快慶の弟子・長快作である。この像を含め、
 今回展示の像で、作者が確定しているもの、及び作者の可能性が高いものを
 表記してみた(❿)。

 六波羅蜜寺には慶派仏師の像が多いことが分かる。また、六波羅蜜寺と東寺
 もしくは空海との繋がりを感じさせるものもある。
❾弘法大師坐像      ❿出展作品と仏師

規模的にちょうど良い特別展であり、体力的にも無理なく楽しめる内容だった。

2022年3月10日木曜日

東寺の歴史と寺宝(Ⅲ)

 今回は空海の曼荼羅について記した言葉を確認することから始めたい。

1.空海の「曼荼羅」

 空海は御請来目録(ごしょうらいもくろく)で「密蔵は深玄にして、翰墨に
 載せ難し更に図画を仮りて悟らざるに開示す。」と記されている。

 意味は、空海研究所長の武内孝善氏解説によると「真言密教はとくに奥深く、
 文字で表し尽くすことは難しい。だから図画をかりて悟れない者に開き示す
 のである。」

 更に「経疏に秘略にして、これを図像に載せたり」(①のⅢ)とある。これ
 は「経典や注釈書には秘したり略したりしていて(十分理解できないところ
 を)図像が端的に画いてくれている。」(➁のⅢ)という意味である。

 続いて、「伝法・受法、此を棄てて誰ぞ。」(①のⅤ)即ち、「伝法も受法
 も、曼荼羅をはなれては誰も奥深いところまで理解することはできない。」
 (➁のⅤ)とある。

 真言密教と曼荼羅は不可分の関係であり、密教は曼荼羅なければ成立しなか
 ったのではないだろうか。密教のエッセンスをすべて曼荼羅の中に集約して
 いると言える。曼荼羅を理解することが、密教を知ることに繋がる。

①空海の「曼荼羅」      ➁曼荼羅解説文

2.両界曼荼羅
 
(Ⅰ)「両界」か「両部」か?
 「両界曼荼羅」「両部曼荼羅」と二通りの言い方がある。違いは何だろうと、
 疑問に思っていた。密教の研究者である正木晃氏が、著書「空海と密教美術
 (角川選書)」で次のように解説されていた。

 平安前期、空海より数十年後に天台宗の密教部門を大成した安然(あんねん)
 が真言宗の両部曼荼羅という呼称に反発して、両界曼荼羅という呼称を採用
 したそうだ。胎蔵曼荼羅も金剛曼荼羅にあわせて胎蔵曼荼羅と呼ばれる
 ようになったとのことだ。今では両界曼荼羅の方が普及している。

 胎蔵曼荼羅には「界」という「領域」示す意味は無く、胎蔵曼荼羅の呼称
 は正しくないと正木氏は言う。真言宗では今でも両部曼荼羅と称している。
 なお、美術史や文化財の分野においては、両界曼荼羅の表現が用いられてい
 るとのことであり、本ブログにおいても両界曼荼羅を使用することとした。

 誤用がいつの間にか広がり一般化してしまい、誤用と言えなくなってしまう
 ケースは良くあることだ。

(Ⅱ)両界曼荼羅は何を表現しているか?
 「胎蔵界曼荼羅」は7世紀前半に東インドで誕生した。一方「金剛界曼荼羅」
 は7世紀後半に南東インドで成立したとのことだ。元来、別々の曼荼羅であ
 ったものが、空海の師匠である唐の恵果阿闍梨によって二つを合体すること
 が考案された。そして「金胎不二」として大成したのが空海である。

 胎蔵界曼荼羅は私たちの世界の成り立ちを表現しており、慈悲と智慧からな
 る「理の曼荼羅」と言われている。大日如来の慈悲と智慧が世界に遍満する
 様子をあわわしている。(③の右)

 金剛界曼荼羅は悟りに至る道筋を表現しており、「智の曼荼羅」と呼ばれて
 いる。大日如来の智慧に至る段階を示している。(③の左)
③両界曼荼羅

(Ⅲ)「3」が聖数の胎蔵界曼荼羅
 胎蔵界曼荼羅は大日経を典拠にしたものであり、大日経の思想を端的に提示
 したものとして「三句の法門(さんくのほうもん)」と言う言葉がある。

 「菩提心を因とし、大悲を根とし、方便を究竟(くきょう)となす」、即ち
 「悟りを求める心を行動の原因とし、大いなる慈悲を根本とし、実践に最高
 の価値をおく」。

 この胎蔵界曼荼羅の構造は、釈迦・観音・金剛手の三尊形式が起源とされる。
 如来を中尊に左右の脇侍が慈悲と智慧を象徴する存在として配置される構造
 となっている。(④⑤⑥)

 また、胎蔵界曼荼羅の構造は初重、二重、三重の三層構造になっているとさ
 れる。ただし、発展の段階で外金剛部院が加わり四重のようになっている。

 ❶中台八葉院から、❷遍知院、❸持明院、❹観音院、❺金剛手院までが初重。
 ❻釈迦院、❽虚空蔵院、❿地蔵院、⓫除蓋障院が二重。
 ❼文殊院、❾蘇悉地院が三重となる。(正木晃著 「空海と密教美術」から)

 この構造は、いかにも大日如来の慈悲と智慧が四方八方に広がる様子を示し
 ている。
④胎蔵界曼荼羅12院      ⑤胎蔵12院の解説文

⑥胎蔵界曼荼羅の三部

(Ⅳ)「5」が聖数の金剛界曼荼羅
 「智の曼荼羅」である金剛界曼荼羅は智慧に特化したものであり、胎蔵界の
 三部を補強するように二部が加わる。宝部(ほうぶ)と羯磨部(かつまぶ)
 である。従って金剛界曼荼羅では「5」が聖数となり、五尊形式をとる。

 三毒にまみれた人間を悟りに向かわせるには、「蓮華部」の慈悲、「金剛部」
 の智慧だけでは難しいとしたのだろうか。いわばご褒美のような「宝部」と
 活動をし続けるイメージの「羯磨部」を入れて現実世界に近づけたように思え
 る。「宝部」が飴(アメ)、「羯磨部」が鞭(ムチ)と勝手に解釈している。
 (⑦⑧⑨)

 なお、金剛界曼荼羅は9ブロックに分かれており、その中心にあるのが成身会
 (じょうじんね)である。成身会が根本であり、他のブロックは成身会の変形
 版、もしくは省略版と言える。従って、成身会を理解することが金剛界曼荼羅
 を理解することになる。典拠となる経典は金剛頂経である。

 ただし、成身会の右斜め上に位置する理諏会(りしゅえ)だけは全く異なる。
 理諏会の典拠となる経典は理趣経であり、経典からして違う。一番密教らしい
 のがこの理諏会かもしれない。煩悩すら排斥しないで悟りへのエネルギーへ
 昇華させてしまう。煩悩即菩提の世界だ。
⑦金剛界曼荼羅       ⑧金剛界曼荼羅成身会

⑨金剛界曼荼羅成身会の五部

3.立体曼荼羅の構成
(Ⅰ)空海の構想
 嵯峨天皇から東寺を下賜され、空海が講堂に造立したのが立体曼荼羅である。
 正木 晃氏によると、空海は最初に仁王経念誦儀軌に説かれた曼荼羅を構想し
 五菩薩、五明王、五方天の構成にした。仁王経念誦儀軌は金剛頂経の一部と
 空海は考えており、金剛頂経の世界を具体化したいと考えていた。

 ところが、真言密教で最も重要な金剛界五仏が入っていない鎮護国家に相応
 しくないと考え、壇上の中央に五仏を安置する現在の構成とした。(➉⑪⑫)
➉空海が構想した立体曼荼羅

⑪東寺講堂立体曼荼羅     ⑫同左 仏像配置

(Ⅱ)五智如来
 中央には大日如来を中心にし、周りに4仏が配置されている。大日如来の智慧
 を分有し、五智如来と称する。金剛界曼荼羅の五尊形式である。(⑬)

 5つの智慧と智慧の内容については⑭に示す通りである。併せて金剛界五部の
 部族を明記しておいた。即ち大日如来は仏部、阿閦如来は智慧の金剛部、宝生
 如来はご利益(りやく)の宝部、阿弥陀如来は慈悲の蓮華部、不空成就如来は
 成就する活動、いわば精進(しょうじん)の羯磨部となる。(⑭)
、⑬五智如来        ⑭5つの智慧

(Ⅲ)正法輪身の五菩薩、教令輪身の五大明王
 五智如来の智慧は五菩薩や五大明王に引き継がれる。慈悲の姿で真理を伝える
 時は五菩薩となり、忿怒の姿で叱ってでも真理を伝えなくてはならない時には
 五大明王となる。(⑮⑯⑰)

⑮五菩薩         ⑯五大明王

⑰三輪身

(Ⅳ)大乗仏教の天部(梵釈と四天王)
 密教の五智如来、五菩薩、五大明王を守護する梵天・帝釈天、四天王はいずれ
 も大乗仏教の尊像である。空海は密教と大乗仏教を敢て融和させる構成にした
 ものと思われる。

 残念なことに、空海は講堂の立体曼荼羅の完成を見ることなく、高野山で入定
 された。以上で、空海の曼荼羅についての整理を終える。

⑱梵天・帝釈天          ⑲四天王




2022年2月22日火曜日

東寺の歴史と寺宝(Ⅱ)

東寺講堂の立体曼荼羅について整理する前に、空海の著作と思想に触れたい。
空海は沢山の著作を残している。その中で注目したのが『三教指帰(さんごう
しいき)』、『弁顕密二経論(べんけんみつにきょうろん)』、『秘密曼荼羅
十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』。(❶) 

1.三教指帰
 『三教指帰』は空海が24歳の時に記した『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を後
 に校訂、改題したものである。空海の出家宣言の書と言われており、戯曲風
 に書かれている。儒教、道教、仏教を比較し仏教の優位性を結論付けている。

 儒教は、立身出世ための処世術を記した指南書であり、人生をいかに生きる
 か、何のために生きるかと言う根本命題を説いていない。道教はいかに生き
 るかを説くも、現実世界と遊離した生き方は虚無的(ニヒリズム)である。

 仏教はいかに生きるか何のために生きるかと言う根本命題に向き合いながら
 現実社会との関りも説いている。空海の問題意識に応えるものであった。従
 って、仏教が道教、儒教より優位にあるとしている。

2.弁顕密二経論
 弁顕密二経論とは、大乗仏教の顕教と密教とを比較し、密教の優位性を説い
 た教相判釈(きょうそうはんじゃく)の書である。注目する主要な点を❷に
 まとめた。

 顕教は報身仏(ほうじんぶつ)、応身仏(おうじんぶつ)が説く仏教である。
 報身仏とは、誓願を立て誓願が成就したことにより仏陀となった阿弥陀如来
 や薬師如来が該当する。応身仏とはこの世に生まれ、仏陀となられたお釈迦
 様のことである。

 報身仏、応身仏とも悟りに達したものの、悟りの中身については明確になっ
 てない。お釈迦様は悟りを得た後、梵天から説法してほしいとの要請に対し、
 悟りを人に伝えることはできないと断っている。即ち、言葉では伝えきれな
 いものであるとお釈迦様自身自覚されていた。(梵天勧請3度目で説法する
 ことを了承した)

 密教では、悟りの中身=宇宙の真理=法身仏(ほっしんぶつ)=大日如来の
 図式を描いた。言葉では伝えきれないことを前提にして、論理立てている。
 「法身説法」「真言」「種字(梵字)」「印相」など五感を通じて体感体得
 することを志向している。

 極めつけは「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」である。顕教は「三劫成仏
 (さんごうじょうぶつ)」として、気の遠くなる歳月、何度も生死を繰り返
 す輪廻転生を経ないと成仏できないとしていた。一方、「即身成仏」はこの
 身このまま生きたまま成仏できるとした。正に、宗教革命、コペルニクス的
 転回と言える。

❶空海の代表作と思想    ❷弁顕密二経論の骨子

3.秘密曼荼羅十住心論
 悟りへ至る段階を第一の「煩悩」から到達点・第十の「密教」まで十の段階
 とした。第三段階までが日常の世界である「世間」であり、第四段階からが
 非日常の世界「出世間(しゅっせけん)」としている。(❸)

 出世間からが仏教の世界であり、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)の
 仏教修行者の境地が第四・第五段階となり、その上に顕教の宗派を割り振っ
 て行く。

 この教判書が出た時には、他宗派から相当な反論がなされたであろうと思わ
 れる。密教の前段階(第九段階)に廬舎那仏の華厳経が置かれていることは
 理解できる。廬舎那仏の発展形が大日如来であり、密教との関連性が強い。

 この秘密曼荼羅十住心論は、淳和天皇の勅命を受け提出されたものである。
 十住心論を広論とし、略論として秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)も同時に提出
 している。他宗派の状況は❹の通りである。他宗派は一書のみで、巻数も少
 ない。空海の自信と気迫も感じさせるボリュームとなっている。
❸十住心論        ❹天長六本宗書

4.密教、曼荼羅について
 空海の著作を離れて、密教のあらましと曼荼羅の本来的な意味について整理
 する。密教とは「文字で伝えられない秘密の教え」とされる。「秘密」と言
 うと、何かを隠しているようにとられかねない。隠すのではなく言葉にして
 オープンにすることができないと言う意味である。ここが経典で伝える顕教
 との違いだ。

 文字で伝えられないからこそ、曼荼羅、真言、種字、印相など五感に訴える
 手段が必要となる。灌頂(かんじょう)と言う密教の儀式は受戒や修行者が
 が上の位に上がる時に行われる。師資相承(ししそうしょう)と言い、師か
 ら弟子へ口で伝えられる。(❺)

 禅宗の不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)と共通
 するところがあると思える。経典や言葉で伝わるものではなく、体験によっ
 て伝わるもの、心から心へ直感的に伝えられるものである。

 文字や言葉で伝えられないから「マンダラ」が使われるようになった。それ
 では「マンダラ」とはいかなるものであるか。本来的な意味から考えてみた
 い。仏教発祥の地、インドでは古くから円形の土の壇を作って、神々を勧請
 し、祈願したと言う。その壇のことを「マンダラ」と言う。

 「Mandala(マンダラ)」は「Manda(マンダ)」と「la(ラ)」に分か
 れる。マンダは本質、ラは具えているものを意味するそうだ。つまり、本質
 を具えているものがマンダラとなる。

 悟りの本質を表したものがマンダラ(曼荼羅)でり、密教にとって曼荼羅は
 無くてはならないものと言える。(❻)
❺密教のあらまし      ❻曼荼羅の本来的意味

空海思想に対する記述は筆者の個人的意見であり、誤解や理解不足から適切で
ないことがあればご容赦願いたい。
次回は空海の曼荼羅に対する考え方や東寺講堂の立体曼荼羅について整理する
こととしたい。

<続く>



2022年2月13日日曜日

東寺の歴史と寺宝(Ⅰ)

 「古寺名刹参詣の自分流楽しみ方」シリーズの第5弾は『東寺』にしたい。
東寺は、京都を訪れるたびに参詣する寺院ある。空海所縁の寺院と言うこと
で、関心・興味が尽きない。

東寺は複数回に分けて整理することとした。先ずは、歴史と寺宝を概観し、
次いで、空海の思想と曼荼羅を別の回に整理したい。

1.歴史、伽藍、寺宝
 桓武天皇は平城京から長岡京に遷都し、造営責任者の藤原種継が暗殺され
 たため、わずか10年で再び平安京に遷都した。遷都理由の一つに奈良仏教
 の僧侶が政治に介入することを排除しようとしたことが挙げられる。道鏡
 の事件が直ぐに思い起こされる。

 平安京には官寺の東寺、西寺以外に寺院の造営を認可しなかった。そうし
 た時代背景の中で東寺が誕生した(❶)。

 東寺の略年表に空海の関りを記したのが❷である。空海は遣唐使として唐
 に渡り密教を請来した。嵯峨天皇の信任が厚く、東寺別当となり、やがて
 東寺を賜る。

❶東寺の歴史と寺宝      ❷略年表と空海の足跡

 東寺の伽藍配置が分かる境内案内図(❸)と堂塔に安置の諸尊像(❹)で
 境内の建造物と文化財の仏像について概観できる。南大門、金堂、講堂、
 食堂と一直線に並び、南大門を挟むように五重塔と灌頂院が建つ。
❸東寺境内案内図      ❹堂塔に安置の諸尊像

2.主要堂塔の再建
 木造建築の寺院は焼失、再建を繰り返して来た。現在の東寺・主要堂塔に
 ついての再建年をまとめた(❺、❻)。国宝・重文の建造物もすべて再建
 された建造物である。豊臣秀頼や徳川家光が再建を支援していたとは興味
 深い。
❺堂塔略年表と再建年      ❻主要堂塔の再建状況

3.各堂塔の寺宝・諸尊像(立体曼荼羅を除く)
 (1)金堂、御影堂
   東寺のご本尊が金堂の薬師如来坐像である(❼、❽)。日光・月光の
   両脇侍像を従え、十二神将は薬師如来の台座を支えている。

   御影堂(大師堂)はかつて弘法大師の住房であった仏堂である。そこに
   国宝の弘法大師坐像、不動明王坐像が安置されている。不動明王像は、
   弘法大師の念持仏とされ、秘仏で御開帳されることはない(❼)。

   弘法大師坐像の作者が運慶の4男、康勝(こうしょう)とされる。運慶
   の工房が東寺に深く関わっていたことを示している。康勝の作品として
   有名な像は法隆寺金堂の阿弥陀如来坐像や六波羅蜜寺の空也上人立像が
   ある(❾)。

❼金堂・御影堂の仏像    ❽金堂本尊と諸尊像

❾康勝の作品

 (2)宝物館、鎮守八幡宮
   東寺の守護神とも言える像が宝物館安置の兜跋(とばつ)毘沙門天立像
   と八幡宮の八幡三神像。兜跋毘沙門天は平安京の正面入口である羅城門
   楼上に置かれ、平安京を守護してきた。八幡三神像は平安京鎮護のため
   空海が請来・造立したものではないかと言われている。

   兜跋毘沙門天の「兜跋」とは一般的に現在の中国ウイグル自治区にある
   トルファンとされている。シルクロードの要衝として栄えた都市である。
   守護神と所縁のある土地で(同化政策のためか)民族的な迫害を受けて
   いるとの報道を耳にする。兜跋毘沙門天の守護を祈るばかりだ。

   2013年に東北を旅した時に、岩手県花巻市の成島毘沙門堂で拝観した
   兜跋毘沙門天像を思い出す。5m近い巨像で迫力満点であった(⓫)。
❿宝物館と八幡宮の尊像   ⓫成島毘沙門堂の毘沙門天像

 (3)観智院 
   観智院は東寺の北大門を出たところにある。所蔵する五大虚空蔵菩薩は
   鳥獣坐の台座が非常に興味深い。この像は空海の師匠である恵果阿闍梨
   の念持仏であったものを空海の孫弟子、安祥寺の恵運(えうん)が請来
   したと伝えられる(⓬)。

   安祥寺の開山が恵運であり、開基が藤原順子(ふじわらののぶこ)であ
   る。2019年に五智如来座像が国宝に指定された。東寺講堂の五智如来は
   焼失後に再制作されたものであり、この安祥寺像が日本最古の五智如来
   像となる。
⓬観智院の五大虚空蔵菩薩像   ⓭安祥寺の五智如来像

 (4)五重塔
   五重塔の内部は、心柱を大日如来にし、4面に菩薩を従えた如来が安置
   されている。また、壁面には真言八祖像が描かれている。真言八祖とは
   真言密教を伝えたインド、中国、日本の祖師のことを言い、弘法大師が
   法脈を受け継ぐ承継者となる(⓮⓯)。

⓮五重塔内部と配置図   ⓯五重塔の五智如来


<続く>