2018年7月16日月曜日

鎌倉市大船 常楽寺を参詣


7月14日(土)荻窪のメンバー14名がJR新宿駅で、湘南新宿ラインに
乗車、常楽寺へ向かった。鎌倉の古刹には今まで何度も足を運んだ。
その際、下車する駅は、決まって北鎌倉駅か鎌倉駅のいずれかだった。
今回、初めて大船駅で下車することになった。

大船駅で江ノ電バス乗り場に向かう。前方には真っ白な大船観音が顔を
覗かせる。(①、②)
①大船駅 江ノ電バス停     ②微笑みの大船観音

常楽寺の創建は、建長寺や円覚寺より古い。鎌倉幕府三代目執権の
北条泰時が建立した粟船御堂(あわふねみどう)が始まりとある。(③)
大船(おおふな)の地名は粟船(あわふね)に由来するとのことだ。

常楽寺の山号は粟船山(ぞくせんざん)と言い、当初のお堂名を残して
いる。なお、北条氏略系図と各執権が建立した寺院は④の通りであり、
常楽寺が鎌倉古刹の中でも、古いことが良く分かる。

また、開山の退耕行勇(たいこうぎょうゆう)は頼朝や政子の帰依を受け、
重源、栄西に次いで東大寺復興の大勧進職三代目を務めた高僧。
③常楽寺の縁起          ④北条氏略系図

茅葺の山門を抜けると、境内は木々が茂り、心が落ち着く空間となって
いる。(⑤) 本堂では、法要が営まれており、境内だけの拝観となった。

境内の堂宇は、本堂、仏殿、文殊堂の3つ。山門の真っ直ぐ先、山際に
仏殿がある。その左側に文殊堂、山門と仏殿を結ぶ線の中央、右手に
本堂がある。

本堂は、法要のため、閉ざされたまま、文殊堂は秘仏のため、閉扉され
たままとなり、唯一拝観できたのは仏殿の阿弥陀如来坐像だけ。(⑥)
阿弥陀如来の脇侍像、観音菩薩、勢至菩薩が修理のため、外出されて
いた。(こちらも残念)

阿弥陀如来像は、室町時代の作で作者は不詳とのこと。目を見開き、
穏やかな表情で、来迎印を結んでいる。暫くは、仏殿や文殊堂の造り
を眺めながら、歓談した。 
⑤樹木が茂る常楽寺境内     ⑥仏殿の阿弥陀如来坐像

仏殿の裏手には、山裾に開基・北条泰時や功績のあった住職の墓が
並んでいる。(⑦、⑧) 禅宗寺院に共通することとして、墓所が質素。
大変、好感が持てる。
⑦墓地を解説する石板      ⑧北条泰時の墓(向かって右)

仏殿の右脇には庭園と池がある。池には色天無熱池(しきてんむねつち)
との名前が付いている。色天とは欲界の穢れを離れた清浄な世界を、
無熱池とは、炎熱の苦しみのない池を意味するそうだ。禅宗風の作庭に
なっている。

そこに、可憐な白い蓮の花(⑨)と華やかなピンク(⑩)が咲いていた。
酷暑の中、爽やかな風が流れたような気持になった。 
⑨色天無熱池の蓮の花(白)    ⑩同じく蓮の花(ピンク)

境内をぶらぶらした後、山門前に並んで記念撮影。(⑪、⑫)
⑪境内を散策する参加者     ⑫山門の前で記念撮影

次に向かうのは、裏山、木曽義高のお墓。境内の左側の細い道を歩き、
曲がりくねった山道を登る。(⑬、⑭) 木曽義高は、木曽義仲の嫡男。
木曽義仲は、源頼朝とは従兄弟同士。平家追討の令旨を受け、共に、
挙兵した。その後、敵対関係になり、頼朝軍敗れ、討ち死にする。

義高は頼朝との和睦のために、鎌倉へ送られた。悲運な最期で、常楽寺
の裏山に祀られたようだ。(⑮)墓石の背後が盛り土となって、卒塔婆が
立っていた。これが木曽塚(⑯)と呼ばれている。 
⑬仏殿の裏山を登る       ⑭木曽塚まであと一息

⑮木曽義高の墓           ⑯ 木曽塚

常楽寺のあと、多聞院にまで足を延ばした。(⑰) 真言宗大覚寺派、
本尊が寺名の通り毘沙門天(多聞天)の寺院。真言宗寺院であり、
仏像が多いと、楽しみにして訪れた。 
⑰常楽寺から多聞院へ向かう

残念ながら、こちらの寺院も法要が営まれるため、境内のみの拝観
となった。土曜日は法事が多く、拝観が難しくなるケースが多い。
⑱多聞院境内            ⑲多聞院本堂内陣

2つの寺院を巡ったあとは、和風レストランで、昼食タイム。
この炎暑の中、ご参加頂いた皆さんに感謝しながら、楽しく、
美味しく頂いた。(合掌)



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