2022年2月1日火曜日

東大寺の歴史と寺宝(Ⅱ)

前号に続き、東大寺の寺宝(文化財)についてまとめた。今回は、法華堂
大仏殿、南大門とそれぞれの堂宇に安置された諸尊像について整理した。

1.法華堂
  法華堂は須弥壇のある正堂(しょうどう)と礼拝するスペースの礼堂
  (らいどう)を接合部(造り合い)で繋いだ建物となっている。正堂は
  創建当初(奈良時代)のお堂であり、礼堂が鎌倉時代の建立である。

  法華堂は、2010年5月~2013年4月の3年間をかけて一世紀ぶりの修理
  がなされた。その時の様子が2013年5月にテレビで放映された。朝日
  放送制作で、「天平の美を守れ~東大寺法華堂・修理の記録~」と言う
  番組名であった。法華堂が危機に晒されていた様子を知ることとなった。

  堂内の仏像は一体一体丁寧に梱包され、運び出され、国宝修理所へ届け
  られ、傷みの調査や修理を受けていた。修理の甲斐あって須弥壇始め、
  堂内も、仏像も晴れやかになったように見えた。

❶法華堂

  法華堂修理の期間中に当たる、2011年10月に東大寺ミュージアムが開館
  した。法華堂修理完了後に、法華堂に戻らないでミュージアムに移った
  仏像は4件8躯(国指定文化財としてのカウント)ある。(❷❸❹❺)

  国指定文化財の名称(❹)によれば、国宝 塑造<日光仏/月光仏>立像、
  重文 弁財天吉祥天立像、木像地蔵菩薩坐像、木像 不動明王二童子像の8軀
  であり、これだけの像が法華堂から去ると、堂内が少し寂しく感じるよう
  にもなった。(❺)

  なぜ移動となったのだろうか? 法華堂本来の像ではなく、客仏だったから
  だろうか? 法華堂本来の像については諸説ある。本尊の不空羂索観音が
  立つ八角二重壇の下段に6つの台座痕跡があり、6体が本尊を囲んでいたと
  分かる。

  その6体とは塑造日光・月光菩薩像(本来像名は梵天・帝釈天)と戒壇堂の
  塑造四天王像(❾)であり、当初の安置仏は執金剛神像を加えた8体では
  ないかとの説だ。乾漆像の大きな本尊を塑像群が囲む光景を見てみたい。

  本来像に諸説があり、どの像が本来像か、どの像が客仏かを見分けるのは
  難しいように思える。今回移動した像は塑造が多い。免震装置を備えてい
  るミュージアムの方がより安心と考えたのかもしれない。

❷以前の法華堂内陣    ❸現在の法華堂内陣

❹法華堂安置・旧安置仏像一覧 ❺法華堂からミュージアムへ

  現在、法華堂安置の仏像10躯はすべて国宝。執金剛神像のみが塑造であり、
  他の9軀はすべて脱活乾漆造である。これだけ乾漆像が揃うお堂は無い。
  天平の美を象徴する尊像揃いと言える。(❻❼❽)
  
  執金剛神像は本尊の不空羂索観音像と背中合わせで北向きに立つ。開山
  の良弁僧正念持仏と言われる。この像は伝説があり平将門の乱の際には、
  髻(もとどり)の元結(もとゆい)紐が蜂となって飛んで行き、将門を
  刺して、乱を平定したとのことだ。(❻)
❻不空羂索観音/執金剛神  ❼金剛力士/梵天・帝釈天

❽四天王像(脱活乾漆造)  ❾戒壇堂四天王像(塑造)

2.大仏殿
  大仏殿は2度の大火に見舞われており、重源が復興した鎌倉時代のものは
  史料でしか確認できない。大仏殿の諸尊像は運慶、快慶などの慶派仏師が
  制作したことが分かっている(❿)。
  
  もし、当時の像が残っていたら、どれほど圧倒される迫力だったろうかと
  想像する。返す返すも残念だ。制作に携わった仏師は以下の通り(❿⓫)。
  【脇侍像】 如意輪観音…定覚・快慶/ 虚空蔵菩薩…康慶・運慶
  【四天王】 持国天…運慶/増長天…康慶/広目天…快慶/多聞天…定覚
  平氏の時代には不遇の身であった慶派仏師(⓬)が源氏の世になって一躍
  表舞台に出て来た。

  現在は、火災によって損傷を受け、その都度修復を重ねてきた廬舎那仏と
  江戸時代に再建された両脇侍像(⓭)と広目天と多聞天(⓮)が大仏殿に
  鎮座されている。

  金剛峯寺所蔵の四天王像の中で、広目天像に「快慶の銘」がある(⓯)。
  東大寺像の10分の1のサイズであり、ひな型ではないかとされる。更に
  海住山寺(かいじゅうせんじ)の四天王像も同じ図像を基に制作された
  のではないかと思われる。13mを越える四天王像が大仏殿に立っている
  と想像しただけでワクワクする。
❿東大寺続要録記載の製作者 ⓫大仏殿諸尊像と製作者名

⓬慶派仏師一覧と系統図   ⓭現在の廬舎那仏と両脇侍像

⓮大仏殿の広目天・多聞天像  ⓯同じ図像に基づく四天王像

3.南大門
  南大門は三好松永の合戦での焼失を免れ、鎌倉時代の姿を今日に伝えて
  いる。
  運慶、快慶作の仏像が焼失することなく、今日拝観できるのが南大門の
  金剛力士像だ。吽形像は定覚と湛慶(⓰)、阿形像が運慶と快慶(⓰⓱)
  との確証がある。

  これだけの超大作がわずか69日と言う短期間で造立されたとのことだ。
  正に神業としか言いようがない。

⓰金剛力士像内納入物と墨書銘  ⓱金剛力士像墨書銘(拡大)

⓲金剛力士像(阿形・吽形)

東大寺の歴史は文化財を通して、学ぶことができる。正に、生きた教材として
国民共有の文化遺産と言える。大事に守って行く責任がある。

約1300年前(奈良時代)に、天然痘が大流行した。100万~150万人が感染し
死亡したとのことだ。当時の人口の25~35%に当たる。科学の発達していない
時代であり、廬舎那仏に祈るしかなかった。

翻って、科学が発達した今日はどうだろう。コロナウイルスに振り回されて
いる。未知のウイルスであり、仕方ない面もある。然しながら、せめて対処
方法は納得感のある科学的方法でお願いしたい。「自己診断で自宅療養」など
の指針は、1300年前に戻ってしまったように感じる。


2022年1月20日木曜日

東大寺の歴史と寺宝(Ⅰ)

『古寺・名刹参詣の自分流楽しみ方』をまとめ始めて、今回が4回目になる。
取り上げた古刹は「飛鳥寺・元興寺」、「薬師寺」。そして今回が「東大寺」
となる。『東大寺の歴史と寺宝』は2回に分け、第一回は歴史と華厳の教えを
中心にまとめ、第二回で寺宝の詳細をまとめることにしたい。

 1.東大寺の寺名変遷と文化財

  東大寺の始まりは聖武天皇が皇太子基親王(もといしんのう)の菩提を
  弔うために金鐘山房(きんしょうさんぼう)を造営したことによる。
  寺名も変化し、金鐘寺、金光明寺(こんこうみょうじ)、東大寺となっ
  て行った。東大寺は通称名で、「金光明四天王護国之寺」が正式名との
  ことだ(❶)。

  文化財の寺宝は建造物8棟、美術工芸品のうち仏像彫刻14件24躯が国宝
  に指定されている。国宝仏像の安置されている堂塔に軀数を表示(❷)
  した。

❶東大寺の概要と文化財   ❷伽藍と国宝仏像安置数

2.聖武天皇と藤原氏との関係
  藤原氏は天皇家と姻戚関係を築き、政権掌握を強固にした。聖武天皇の母
  ・宮子、皇后・光明子は、いずれも藤原不比等の娘(宮子、光明子は異母
  姉妹)であり、藤原氏が台頭する礎となった。聖武天皇が皇族と新興勢力
  の藤原氏との抗争に心を痛めたことは想像に難くない(❸)。
❸藤原氏と天皇家の関係

3.東大寺の歴史
  東大寺の歴史を3つの視点で整理した。Ⅰ)史実(出来事)、Ⅱ)堂塔
  Ⅲ)人物の3点である。
  
 (Ⅰ)略年表に見る史実(出来事)
   注目したことは、①聖武天皇が大仏造立を発願するに至る経緯となぜ
   何度も遷都したのか。大仏造立後は、戦火による焼失と復興の歴史に
   スポットを当てた。

   聖武天皇は即位後、災難が続く。基親王の死去、長屋王の変、天然痘の
   流行による政権中枢(藤原四兄弟)の死去、藤原広嗣の乱と立て続けの
   受難である(❹)。

   当時、災難は為政者の徳が足りないから起こると考えられていた。聖武
   天皇はどれほど悩んだことだろうか。この難局を乗り切るために、仏の
   力に頼ろうとしたことは想像できる。河内の智識寺の廬舎那仏を礼拝し、
   大仏造立を発願したとされる(❹)。

   それでは、聖武天皇が何度も遷都を繰り返したのはなぜだろうか(❺)。
   聖武天皇が心神耗弱となり彷徨したのではないかとも言われた。しかし、
   最近の研究では、唐の制度に倣い複都制(機能別の都)を念頭に、行動
   したのではないかとも言われる。

   外交(難波宮)、物流(恭仁京)、仏の都(紫香楽宮)を拠点に複都制
   の構想があったのではないかと言う研究だ。そうであるなら、精神的に
   タフな天皇像となり、イメージを一新する。いずれにしても、大仏造立
   の地を求めていたことだけは確かのように思われる。
❹略年表(奈良時代)     ❺聖武天皇の遷都
   
   平安期以降の大きな出来事と言えば、1180年の平重衡、南都焼き討ちと、
   1567年の三好三人衆と松永久秀の合戦に被災である(❻)。大半の堂塔
   を焼失し、東大寺存亡の危機となった。
❻略年表(平安~江戸)

 (Ⅱ)堂塔の建立と再建
   主要伽藍で創建当初の建造物法華堂だけ(❼)。転害門も当初建造物。
   二度の被災を免れた二月堂は修二会の最中に失火し、一度焼失している。
   幸いにも直ぐに再建された。

   南大門は、平重衡の南都焼き討ち後に再建され、三好三人衆と松永久秀の
   合戦では運よく被災を免れた。仁王像と共に鎌倉時代の雄姿を今日に伝え
   る貴重な文化財だ。大仏殿、中門、戒壇堂はいずれも江戸時代の再建。
❼主要伽藍の略年表

 (Ⅲ)東大寺創建・造営・復興に携わった人々
    (❾、❿、⓫掲載の彫像はすべて東大寺所蔵の像)
   
   東大寺創建等の歴史を人物にスポットを当て、整理してみると、最初に
   登場するのが、「四聖御影(ししょうのみえ)」(❽)に描かれた4人
   である。即ち、発願の聖武天皇、開眼導師の菩提僊那(ぼだいせんな)、
   勧進の行基、開山の良弁(ろうべん)の4人。

   次いで、東大寺所蔵の彫像で見て行くと、開山の良弁は「良弁僧正坐像」
   として国宝彫像になっている(❾)。鑑真和上(がんじんわじょう)は
   戒壇院の創建、実忠和尚(じっちゅうかしょう)は不退の行法、修二会の
   創始者として有名である。
❽東大寺創建の4人      ❾創建・造営の僧

   東大寺は、空海が密教を請来する以前から、雑密(ぞうみつ)が伝わって
   いた。法華堂の不空羂索観音像は明らかに密教の仏像である。遣唐使僧の
   玄昉(橘諸兄のブレーン)が伝えたと言われている。

   平安時代になって、桓武天皇の信任厚い最澄が奈良仏教と対立するのに
   対し、空海は奈良仏教を包摂し、東大寺境内に密教寺院を創建している。
   大仏殿を正面にし、参道の左手に「真言院」(❷の地図参照)として今も
   残っている。そこに祀られているのが「弘法大師坐像」(❿)である。
   東大寺の別当にもなったと言うから繋がりの強さを感じる。

   更に、空海の孫弟子であり、醍醐寺開山の聖宝(しょうぼう)(❿)は
   「三論」と「真言」を学ぶ東南院を創設した。これも空海からの法脈と
   言える。今は東大寺寺務所(旧東南院)(❷地図参照)となっている。

   復興の最大の功労者と言えば、重源と公慶の二人(⓫)だ。二人の彫像は
   それぞれ「俊乗堂」「公慶堂」に祀られている。「重源上人坐像」は国宝
   「公慶上人坐像」は重文に指定されている。

   重源が醍醐寺出身の真言僧であり、ここでも東大寺と真言宗との結びつき
   がある。重源の後の二代目大勧進職は栄西、三代目が行勇と鎌倉の寺院と
   繋がりのある僧が務めている。源頼朝が東大寺復興を支援したことと関連
   があるのかもしれない。
❿創建・造営の僧Ⅱ    ⓫伽藍復興の勧進僧

4.三千大千世界の蓮華蔵世界と鎮護国家(仏国土)

  会津八一の歌に『みほとけ の うてな の はす の かがよひ に
  うかぶ 三千だいせんせかい』という大仏讃歌がある。歌意は「大仏の
  お座りになっている台座にある蓮華の上に描かれて、その輝きの中に
  浮かびあがる三千大千世界であることよ」となる(⓬)。

 (Ⅰ)三千大千世界とは
   三千大千世界のことを蓮華蔵世界と言う。蓮の花(華)の中に海が広がり
   海の中に島がある。その島に山(須弥山)が聳える。須弥山の上空には、
   二十五層の天界がある。この蓮の花の世界を「小世界」と言う(⓭)。

   「小世界」が1000個集まって「小千世界」となり、更に「小千世界」が
   1000個集まって「中千世界」、「中千世界」が1000個で「大千世界」と
   なる。即ち、大千世界とは1000×1000×1000=10億の小世界となる。

   三千大千世界の「三千」とは「千が3つからなる」、「千の3乗」の意味
   で、大千世界が3000あるという意味ではない。三千大千世界と大千世界
   は同じものだ。

 (Ⅱ)蓮華蔵世界
   蓮華蔵世界の教主が毘盧遮那仏であり、お釈迦さまは毘盧遮那仏から派遣
   され、小世界の人々を救済するために現れたとされる(⓭)。
  
⓬大仏台座の線刻      ⓭蓮華蔵世界

(Ⅲ)華厳経の教え
   「一即一切 一切即一(いっそくいっさい いっさいそくいつ)」とは、
   「個が全体の代表であり、全体は個の集合体である」と理解した(⓮)。
   
   例えていえば、個々の人間は、人類700万年の歴史を紡いだDNAを持つ、
   人類の代表であり、人類は顔も考えも違う個性豊かな個々人の集合体で
   ある。個を普遍性(共通性)の視点捉え、全体は多様性を包含する奥深い
   眼差しを感じる。
  
   良く似た言葉に「One for all   all for one(一人は万人のために 万人は
   一人のために)」がある。分断と自己責任論、そして自助を躊躇いも無く
   口にする為政者がいる今日、「一即一切、一切即一」は砂漠にオアシスの
   ような言葉だ。

   「華厳」とは「雑華厳飾(ざっけごんじき)」「雑華厳浄(ざっけごん
   じょう)」の略であり、「個性ある花が一緒に咲き誇れる世界」を現し
   ている(⓮)。

 (Ⅳ)廬舎那仏光背の化仏は?   
   蓮華蔵世界の教主が廬舎那仏であることは、先に触れた。東大寺大仏の
   光背にある化仏は何だろうか? これは釈迦如来だ。廬舎那仏は釈迦を
   生む仏と言われている。廬舎那仏から生まれた釈迦が光背に掛っている
   状態と言える(⓯)。釈迦如来が小世界に現れる。
⓮華厳経の教え       ⓯大仏の化仏

 (Ⅴ)蓮華蔵世界の仏国土
   741年に国分寺、国分尼寺の詔が発せられた(❹)。総国分寺としての
   東大寺、総国分尼寺としての法華寺を中心に据え、蓮華蔵世界の仏国土
   を創造しようとした。

   上総国分僧寺(千葉県)や肥前国分僧寺(佐賀県)についての説明文
   (⓰)に記載の通り、国分寺では釈迦如来、国分尼寺では阿弥陀如来
   を本尊としたとある。

   東大寺に毘盧遮那仏、全国68か国の国分寺には釈迦如来が安置された
   ことになる(⓱)。正に蓮華蔵世界の仏国土、鎮護国家の出現となった。
⓰国分寺に釈迦如来安置     ⓱全国の国分寺数

今日、1月20日は「大寒」。日一日と暖かくなることと、一刻も早いコロナの
終息を待ち望んでいる。

≪ 続く ≫




2021年12月18日土曜日

薬師寺の歴史と寺宝

古寺・名刹を参詣する際の事前準備に基礎知識となるものをまとめていた。
このことにより、実際の参詣がより内容の濃いものとなったように思う。
「古寺名刹の歴史と寺宝」シリーズ第二弾は薬師寺を取り上げた。

度を過ぎた情報収集は、素直な感動を阻害することにもなりかねないため
ほどほどが良いこともあり、注意を要する。

1.薬師寺の概要と略年表

  薬師寺の創建は、天武天皇が皇后・鸕野讚良(うののさらら、後の持統
  天皇)の病気平癒を発願して建立したお寺である。平城京遷都と共に、
  現在の地に移転された(❶)。

  薬師寺の歴史の中で注目したのは、「発願、堂塔造立」の歴史、次いで
  明治・大正の「神仏分離・廃仏毀釈から文化財保護」(❷)、そして
  昭和・平成の「白鳳伽藍復興」(❻)の3点である。

  薬師寺の造立は天武持統文武元明元正聖武と歴代天皇に引き
  継がれて行ったことが略年表(❷)から読み取れる。

  また、神仏分離や廃仏毀釈と言った、天下の愚策や妄動があった中、
  フェノロサ岡倉天心等のお蔭で貴重な国家的遺産が残された。

❶薬師寺の歴史と寺宝    ❷薬師寺略年表(一部)

2.国宝建造物
  国宝となっている建造物は2棟、「東塔」と「東院堂」である(❸)。
  東院堂建立の吉備内親王は、文武・元正天皇の姉妹であり、長屋王の后
  となった人物である。藤原氏との政争に巻き込まれ非業の死を遂げる。
  
  創建当時唯一の建造物が東塔である。建築美が「凍れる音楽」と称せら
  れる東塔が残っていたからこそ、白鳳伽藍の復興計画が可能となったと
  言える。
❸薬師寺の国宝建造物

3.白鳳伽藍復興の功労者
  明治期の薬師寺伽藍は廃仏毀釈の影響により荒れ果てていた(❹)。創建
  当初の伽藍復興は薬師寺積年の願いであった。そのような中、登場したの
  が、高田好胤管長だ。

  高田管長は金堂の復興資金10億円を集めるのに多くの人に働きかける勧進
  を始めた。さながら、東大寺復興を果たした鎌倉時代の重源、江戸時代の
  公慶のようだ。ところが、「タレント坊主」などと揶揄されることもあり、
  資金調達は難航した。

  人は誰でも心にオアシス(仏心 ほとけごころ)持っている。「写経に
  よって、心のオアシスを掘り当てませんか」の訴えが人々の琴線に触れ、
  写経納経が急増した。写経勧進が100万人に到達し、目標達成となった。
  (納経料1000円×100万人=10億円)

  また、高田管長が選んだ伽藍再建の宮大工は「鬼」と称された日本一の
  宮大工、西岡常一棟梁だった(❺)。最強のコンビがタッグを組むことで
  復興計画が進められた。宮大工 西岡常一の遺言『鬼に訊け』という記録
  映画(❺)は、一見の価値がある。

  最近、NHKプロジェクトX挑戦者たちという番組で『薬師寺 幻の金堂 
  ゼロからの挑戦』として紹介(再放送)され、懐かしく視聴した。 
❹明治期の薬師寺伽藍    ❺白鳳伽藍復興の功労者

4.白鳳伽藍復興の推移
  白鳳伽藍の復興は、金堂に始まり、西塔、中門、大講堂、食堂と進んで
  いった。間に、玄奘三蔵院と言う新たな伽藍も建立されて行った(❻❼)。
  国宝東塔の大修理も2020年に完了し、再び優美な姿を目にすることが
  できるようになった。
❻白鳳伽藍復興の落慶   ❼復興した白鳳建造物

5.堂塔のご本尊は名品揃い
  白鳳伽藍に安置された仏像と言えば、金堂の薬師三尊像東院堂の聖観音
  像。金銅仏の中で美しさで1、2を競い合う尊像と言える(❽、❾)。

  また、大講堂では、弥勒如来を中尊に、両脇に無著像世親像が配置され
  ている(❿)。同じような尊像配置は、興福寺北円堂(⓫)で観ることが
  できる。これは、法相宗寺院ならではの配置のようだ。法相教学の系譜
  ついて、次にまとめた。
❽金堂の薬師三尊像    ❾東院堂の聖観音像

❿大講堂の弥勒像と脇侍像  ⓫興福寺の弥勒像と脇侍像

6.法相教学の系譜と唯識思想
  仏教はインドで生まれ、中国へ渡り、日本へもたらされた。法相宗の基と
  なる法相教学は「弥勒」の瑜伽唯識説無著・世親の兄弟が大成させた。
  この弥勒は、未来仏の弥勒とは別でありながら名前が同じことから同一視
  されるようになったとのことだ。

  次に、玄奘三蔵は経典を求めてインドを旅し、経典を中国へ持ち帰った。
  持ち帰った経典を漢訳し、法相教学を体系づけたのが玄奘三蔵と弟子の
  慈恩大師である。

  そして、遣唐使として唐へ渡り、玄奘三蔵に師事し、法相教学を学んだ
  のが道昭となる(⓬)。これが、法相教学の系譜と言える。この道昭は
  略年表(❷)698年「大僧都に任ぜられる」とある。日本における
  法相宗の開祖と言われる。

  法相宗の唯識思想とは、「見る人によりそれぞれの世界であり、客観的
  に同一の世界ではない」と言う事だ。見方が変われば世界も変わるとも
  言える。

  薬師寺、興福寺の法相宗寺院で弥勒如来、無著・世親、玄奘三蔵、慈恩
  大師が祀られるのは法相教学の系譜にあるからである。
⓬法相教学の系譜と唯識思想

7.その他所蔵の国宝文化財(図像や神像)
  国宝で色彩も鮮やかな図像に「吉祥天像」と「慈恩大師像」がある。共に
  法要の際に、堂内に安置されるようだ。吉祥天像は正月に行う「吉祥悔過
  法要」で金堂薬師三尊像の御宝前に祀られる。

  慈恩大師像は、「慈恩会」(慈恩大師の忌日11月13日)に大講堂に掲げら
  れるとのことだ。

  休ヶ岡八幡宮の八幡三神像は国宝の小像である。石清水八幡宮が創建され
  て以来、寺院の鎮守社、守護神として八幡神が勧請された。神仏習合が
  進んだ結果である。神像の国宝は全国6件13軀しか指定されていない。
  その中の1件3躯が本像であり、大変貴重な神像と言える。
⓭吉祥天像、慈恩大師像   ⓮休ヶ岡八幡宮の神像

8.玄奘三蔵院伽藍の仏像と壁画
  玄奘三蔵は法相宗の鼻祖に当たり、遺徳を顕彰するために玄奘三蔵院伽藍
  は建立された。玄奘塔には玄奘の彫像(⓯)とともに、ご遺骨も祀られて
  いる。ご遺骨は次のような経緯で薬師寺に安置されるようになったそうだ。

  昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵の
  ご頂骨(頭部の遺骨)を発見し、その一部が全日本仏教会に分骨され、
  更に、玄奘三蔵所縁の寺院として薬師寺に分骨されたとのことだ。正に
  仏舎利のようにも思える有難いお骨だ。

  また、玄奘三蔵院には平山郁夫画伯の大塔西域壁画7場面13枚全長49mの
  大作が掲げられている。壮観であり、画伯の仏教への熱い思いを感じさせ
  る。
⓯玄奘三蔵院伽藍の仏像・壁画