Ⅰ.大宝蔵院と大宝蔵殿
法隆寺の宝物館とも言える大宝蔵院には、ぜひともお目に掛り
たい国宝の仏像が何躯も安置されている。大宝蔵院は西院伽藍
の北東建ち、並列する二棟(東西の宝蔵)を百済観音堂が繋ぐ
構造となっている。
大宝蔵院(百済観音堂)は、平成10年に落成した。大宝蔵院
と東大門の間に「大宝蔵殿」と言う嘗ての宝物館がある(❶)。
大宝蔵殿に安置されていた代表的な宝物が、新設の大宝蔵院に
移され、大宝蔵殿は休館となった。しかし、その後、春秋期間
限定で、通常拝観できない宝物の特別公開を「法隆寺秘宝展」
として、毎年行っている。<今春はコロナで中止>
❶法隆寺の境内と大宝蔵院
Ⅱ.大宝蔵院の国宝仏像
大宝蔵院のフロアマップ(❷)に代表的な宝物が明記されて
いる(番号が①~⑦及び筆者が追記したA)。その中で今回
取り上げる国宝の仏像に★印を付した。4件6躯。
いずれの仏像も、大宝蔵院に安置されるまでに、固有の歴史
を歩んで来た。過去の所在場所を見ただけでも時代の変遷を
知ることになる。
❷大宝蔵院のフロアマップ
(1)地蔵菩薩立像(❸右)
地蔵菩薩は明治時代の神仏分離令、廃仏毀釈の嵐が吹き
荒れる中で災難に遭った。廃仏毀釈でどれだけの遺産が
失われたことか。
地蔵菩薩は元々、奈良県桜井市の大神神社(おおみわ
じんじゃ)神宮寺・大御輪寺(だいごりんじ)に安置
されていた。この大御輪寺は廃寺となり、当時の本尊
は、聖林寺に移管された十一面観音とのことだ。
現存する最古の地蔵菩薩と言われる。また、法隆寺の
ホームページでは「神像であったとする説もある」と
の紹介をしている。いずれにしても、地蔵菩薩の形が
定まっていない平安期に造られた像と言えるようだ。
(2)観音菩薩立像(九面観音)(❹右)
中国・唐から719年に請来された像。像高が37.6㎝
の小像で白檀の香木で造られている。遣唐使が持ち
帰ったものであれば、吉備真備や玄昉の時代となる。
天皇で言えば、聖武天皇の先代、元正天皇の時代に
なり、奈良時代が始まって間もない時期となる。
この像の見事さは、持物、瓔珞、耳飾りに至るまで
一木で造られていることだ。その超絶技法に驚く。
十一面観音でなく、九面観音は珍しく、頭上で3面
ずつ3組あるところが1面ずつ少なくなっている。
本面を加えて9面となる。〔11-3+1=9〕
❸夢違観音像と地蔵菩薩像 ❹阿弥陀三尊像と九面観音像
(3)観音菩薩立像(夢違観音)(❸左)
夢違観音の読み方は「ゆめちがい」「ゆめたがい」の
二通りある。名前の由来は「悪い夢を見ても、観音様
にお祈りすれば、良い夢に変えていただける」との
信仰が、江戸時代以降に広まったことによる。
庶民信仰によって名づけられた観音様であり、どれだけ
多くの人が参詣したかを物語る。
造立は飛鳥時代(白鳳期)となっている。鼻の線と眉が
繋がり、目元、口元が微笑むような顔立ちは、いかにも
白鳳期の仏像の特徴を示している。
かつては、法隆寺東院の絵殿(えでん)本尊として祀られ
ていた。それ以前には、金堂内に安置されていたようだ。
(4)阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)(❹左)
夢違観音が造立後1000年も経った後、江戸時代の庶民信仰
を基に名づけられたのに対し、阿弥陀三尊像は像造立当時
の所有者名(?)か「伝橘夫人念持仏」と付されている。
橘三千代(665年?~733年)は藤原不比等(659年~720年)
の妻であり、光明皇后(701年~760年)の母である。
橘三千代はこの三尊像をいつも礼拝し、何を念じていたの
だろうか?
この当時、阿弥陀如来の信仰は、自分の極楽往生のためでは
なく、悔過(けか、犯した罪や過ちを悔い改めること)や、
死者の追善のために祈ったようだ。
造立は、飛鳥時代(白鳳期)となっている。奈良時代初期
に分類している解説も見かける。三尊像と厨子が一体と
なって、極楽浄土の世界を見事に現出している。
この三尊像も嘗ては、金堂内に祀られていたそうだ。
大宝蔵院に安置された国宝の仏像は、それぞれの辿った歴史
にも思いを馳せると、益々感慨深くなる。百済観音を含めると、
時代も飛鳥、白鳳、奈良、平安と時代を代表する仏像にお会い
できる。
いずれも、慈悲深い仏様である。自分のためでなく、人々の
ために祈ることの尊さを示されているように思える。
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