今回は、法隆寺金堂の諸尊像を取り上げたい。金堂には
5件13躯の仏像が安置されており、内4件10躯が国宝
に指定されている。
1.金堂の国宝諸尊像と天蓋
4件10躯の国宝とは、本尊の釈迦三尊像3躯、薬師
如来像1躯、毘沙門天・吉祥天像の2躯、四天王像の
4躯。
配置図や像容は❶~❸の通り。制作年代については、
平安時代の毘沙門天・吉祥天以外、すべて飛鳥時代
となっている。国宝の飛鳥仏が一つのお堂に、これ程
揃うお寺は、唯一法隆寺だけだ。凄い‼
更に、3如来像の頭上を覆う天蓋(❹)も今年、国宝
となり、文字通り燦然と輝いた。
❶内陣と配置図 ❷釈迦三尊像・薬師像など
❸四天王像 ❹木造天蓋
2.文化庁の国指定文化財等データベースを検索
国指定文化財等データベースに登録されている項目の中
から抜粋し表にした(❺)。
❺文化庁のデータベース
〇薬師如来像の年代が607年と記録。607年は
法隆寺建立の年である。薬師如来像の光背銘から、
法隆寺創建時の像と記録された。(下記光背の銘)
今では、創建時の像と見る人はあまりいないようだ。
国宝に登録されると、記録を訂正することはしない
のだろうか。研究成果で新しい事実が判明した場合
には、データベースに反映して頂きたい。
〇吉祥天立像は、毘沙門天立像と対になって国宝指定を
受けている。データベースで検索すると、毘沙門天像
は、出て来るも、吉祥天像は出てこない。これでは、
データベースとして不十分ではないだろうか。
吉祥天像は、「吉祥悔過会(きちじょうけかえ)」の
ご本尊であり、歴史的、文化的に見ても大きな役割を
担っている、重要な像だ。
3.光背の銘記
金堂安置の飛鳥仏には、光背に銘がある(❻)。釈迦
三尊像と薬師如来像については、誰が、いつ、どんな
目的で造立したかが、四天王像の広目天像、多聞天像
には作者名が銘記されている。
釈迦三尊像光背の要約
「621年12月聖徳太子の生母が亡くなった。翌年の
正月、太子と太子妃が病気になったため、妃や皇子達
が太子等身の釈迦像の造像を発願、病気平癒を願った。
しかし、妃、太子と相次いで亡くなる。623年に
釈迦三尊像を止利仏師に造らせた。」
薬師如来像光背の要約
「用明天皇が病気の時に、平癒を念じて、寺と薬師像を
作ることを誓われた。果されずに亡くなられ、遺志を
継いで推古天皇と聖徳太子が607年に建立した。」
光背銘記は、様々な探求の手掛かりとなる。価値ある
第一級の史料と言える。記録は、国民の貴重な財産で
あり、歴史的検証の鍵となる。
❻金堂 国宝仏の光背銘
4.釈迦如来像と薬師如来像の比較
釈迦如来像と薬師如来像を比較してみた(❼)。釈迦像
の尊顔は、「面長」「杏仁形(きょうにんぎょう)の目」
「仰月形(ぎょうげつけい)の唇」が特徴。
「アーモンド形の目」「アルカイックスマイル」とも
言われる。
一方、薬師像は、少しふっくらとしたお顔に、微笑みが
少し増しているように見える。白鳳期の仏像と共通する
特徴がある。時代的には7世紀後半となる。釈迦像より
古い607年造立とは思えない。
❼釈迦如来像と薬師如来像
先のブログで触れたNHK放送の「秘められた聖徳太子の夢」
の中では、この薬師像は、持統天皇が納めたのではないかとの
解説もあった。正に白鳳期となる。謎の多い、お薬師さんだ。
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