2020年5月30日土曜日

准胝観音の「准胝(じゅんてい)」ってどんな意味?

【観音シリーズ 第二弾】

.准胝観音の「准胝(じゅんてい)」とは、どんな意味か?
 「准胝」とは、サンスクリット語、「チュンデー」の音写で、
 「清浄(しょうじょう)=清らかでけがれのない」の意。
  <速水侑監修 日本の仏 青春出版社より>

 従って、漢字から意味を推し量ることはできない。阿弥陀如来
 は「アミタ―バ(無量光)」「アミターユス(無量寿)」の音写
 で「阿弥陀」となった。音写文字の漢字に意味は無い。
 音写の仏様の例は下記の通り(❶、❷)。
❶音写の仏様①       ❷音写の仏さま➁

.百観音霊場(西国33、坂東33、秩父34)寺院で
  ご本尊が准胝観音は何か寺?
 馬頭観音同様、百観音霊場(❸)の中にあっては2か寺だけと
 少ない。西国霊場では京都・醍醐寺、秩父霊場では埼玉・語歌堂
 (ごかのどう)が准胝観音をご本尊としている(❹)。
❸百観音霊場のご本尊    ❹観音霊場の准胝観音像

.准胝観音の特徴
  准胝観音の特徴は、千手観音と同様に多臂(腕が何本もある)。
 4、6、18臂など、何通りもの様式があるようだ。作例の多い
 のが18臂像(❺)。腕の数だけを見ると、千手観音と見間違う。

  多臂像として共通の千手観音と比較したのが❻の画像。最大の
 違いは、胸前で組む印相。准胝観音が説法印であるのに対して、
 千手観音は、合掌している。胸前の印相をチェックすると識別
 し易い。
❺准胝観音像の特徴    ❻准胝と千手の比較

.准胝観音が祀られた経緯 ~ 高野山と總持寺の場合~
  高野山の壇上伽藍には「准胝堂」が金堂の北西に建つ(❼)。
 この准胝堂は、空海が高野山を開く際に、建立したそうだ。弟子
 たちが得度する時の本尊として祀った。清浄な心を持つことを
 求めたのだと思う。

  醍醐寺に准胝観音が祀られるようになったのは、開祖・聖宝
 (しょうぼう 空海の孫弟子)が高野山に倣って、准胝観音を
 勧請したことによる。

  准胝観音は密教寺院だけでなく、禅宗寺院(曹洞宗、臨済宗、
 黄檗宗)でも良く祀られる。横浜市鶴見区の總持寺衆寮(しゅ
 りょう)にも准胝観音が祀られている(❽)。

  衆寮とは、座禅をする僧堂に対し、僧が経や語録を読み、
 修行を深める自習用の建物のことを言う。これを一般参禅者
 に開放している。准胝観音が参禅者の姿を見守る。
❼高野山壇上伽藍・准胝堂  ❽總持寺衆寮の准胝観音像

.六観音の中の准胝観音
  六道の救済者として、各道に担当の観音菩薩が割り当てられて
 いる(❾)。准胝観音は人間道の救済者となっている。しかし、
 これは真言宗においてであり、天台宗では不空羂索観音となる。

  更には、人間道の観音菩薩を共に入れて、七観音とする信仰
 も出て来た。七観音巡りとして流行し、三十三観音霊場巡りへ
 と発展して行ったとのことだ。
❾六道と六観音、観音巡り


【観音シリーズ】 つづく





2020年5月24日日曜日

異色の観音『馬頭観音』を考える!

【観音シリーズ 第一弾】

「馬」に関する面白い本を読んだ。『「馬」が動かした日本史』
と言う新書版の本(❶ 蒲池明弘著、文春新書)。想像を遥かに
越えるレベルで、馬の存在の大きさを知った。歴史を読み解く上
での視座が広がったようにも感じた。馬を見る目が変わった。
❶「馬」が動かした日本史

馬に親しみを感じ、今回は馬頭観音をまとめてみたい。その前に
『「馬」が動かした日本史』についてご紹介したい。

(1)『「馬」が動かした日本史』(❶)のご紹介
 著者は日本史の謎を、三項目あげて解明していく。
 ①なぜ、縄文文化は東日本で、弥生文化は西日本で栄えたのか。
 ➁なぜ、世界遺産に登録された仁徳陵古墳、応神陵古墳など
  巨大な前方後円墳は、ヤマト王権の中心とされる奈良では
  なく、大阪にあるのか。
 ③なぜ、武士政権は東日本の鎌倉で誕生したのか。

 これらを「黒ボク土(くろぼくど)」「草原」「馬」「武士」等
 をキーワードに解明して行く。江戸時代まで通貨の役割さえ担っ
 ていたのはコメであり、コメ文化の陰に隠れて、馬文化の歴史的
 な影響力は過小評価されていたとし、持論が展開される。

 ●黒ボク土(=火山灰土壌)→●木は育たず、草原となる→●馬牧
 (うままき=馬の牧場)に適する→●飼育された馬が時の支配者
  とどのように関わるか、地理と歴史を織り交ぜながら描く。

(2)馬と宗教創始者との関り
 ・釈迦(ゴータマ・シッダルダ)は、出家する時、愛馬カンタカ
  に乗り、カビラ城を出る。
 ・聖徳太子は厩戸(うまやど)の前にて出生したから厩戸皇子
  (うまやどのみこ)と命名されたと言う。聖徳太子の愛馬
  「甲斐の黒駒」と言われている。
 ・日本最初の寺院を建立したのは、蘇我馬子(そがのうまこ)。
 ・キリストも馬小屋で生まれたとの説もある。

 このように開祖(創始者)と馬との縁が強いことに気づく。
 そのことが事実かどうかの問題ではなく、馬が身近で特別な
 存在であったことを示しているように思える。

(3)馬頭観音を考える
  1.「馬頭観音」に対して抱いていた疑問
   いろんな動物の中で、なぜ馬が変化(へんげ)する観音の
   一つに選ばれたのか不思議に思っていた。観音菩薩と言え
   ば、柔和な表情で慈悲深い仏の代名詞だ。

   馬が選ばれたのは、いかなる理由だろうか? また観音で
   ありながら忿怒の表情なのはなぜか?

  2.「馬頭観音」の由来
   サンスクリット語のハヤグリーヴァ、「馬の頭をもつもの」
   を意味し、「馬頭観音」と呼ばれた。ヒンドゥー教の主神
   ヴィシュヌの化身と言われるとのこと。

   ヒンドゥー神話によると、インドの聖典「ヴェーダ」が
   盗まれ、梵天(ブラフマー)がヴィシュヌに取り戻すよう
   に要請したところ、ヴィシュヌは馬の頭に変身して、奪還
   したと伝えられているそうだ。

   馬頭観音のルーツを見る限り、観音菩薩と言うよりは、
   むしろ、守護神や明王と言える。怒りの形相で馬が草を
   むさぼり食うように諸悪を駆逐し、煩悩を断ち切ること
   を使命とし、馬頭観音が生れた。馬頭明王と呼ばれて、
   明王に分類されることもあるようだ。

  3.馬頭観音像の特徴
   馬頭観音像の特徴を❷図に示した。
❷馬頭観音像の解説
   
   第一の特徴は、頭上に馬頭を載せていることだ。眉間には
   第三の眼があり、顔は忿怒相となっている。顔は一、三、
   四面、腕は二、四、六、八臂と様々な造形がある。

  4.代表的な馬頭観音像
   全国的に有名な馬頭観音像や直接お目に掛った像を何躯か
   ご紹介したい。(❸~❼)

   A.馬頭観音像の5躯(❸❹)は国重要文化財の指定。
    ●福岡・観世音寺像 (四面八臂)<像高5mの巨像>
    ●京都・大報恩寺像 (三面六臂)<六観音の一躯>
    ●福井・中山寺像  (三面八臂)<秘仏>
    ●福井・馬居寺(まごじ)像(三面八臂)<秘仏>
    ●京都・浄瑠璃寺像 (三面八臂)<奈良博に寄託>

❸代表的な馬頭観音像    ❹馬頭観音像その2

   中山寺、馬居寺は北陸三十三か所観音霊場巡りの第一番札所、
   第二番札所となっている。馬居寺の開祖は聖徳太子と伝えら
   れており、寺院縁起(下記)が興味深い。

  『太子が愛馬・甲斐の黒駒にまたがり、諸国を巡った折、若狭の
   国で休息を取った。愛馬が見えなくなり、捜すと馬のいななき
   が聞こえ、光明が輝いた。そこを観音の霊地として馬頭観音を
   祀った。文字通り馬の居る寺として、馬居寺となった。』
  
   「聖徳太子(厩戸皇子)⇔愛馬⇔馬頭観音⇔馬居寺」と見事に
   馬で繋がる寺だ。秘仏のため、常時拝観できないのは残念。

   B.その他、印象に残った馬頭観音(❺❻❼)
    ●滋賀県長浜市徳円寺の馬頭観音(❺)は東京藝大の美術館
     で開催の特別展で観覧した。大きな馬頭が印象に残った。
     観音の里と言われる長浜でも、馬頭観音は少ない。若狭、
     丹後の影響があったと思われる。

    ●日光市輪王寺の三仏堂には三体の本尊(❻)が祀られている。
     その中の一体が馬頭観音像。神仏習合により三仏、三山
     三社(三権現)を同一視する考えによる。馬頭観音が三仏
     に選ばれたことに興味がわく。

    ●浅草の駒形堂(❼)がどのようにできたかに関心が深まる。
     蒲池明弘氏によると浅草の地名の由来は、かつて馬牧が
     浅草近辺にあり、草原があったからではないかと推測され
     ている。駒形が馬と関連しているだけでなく、浅草自体が
     馬と関連しているとは想像していなかった。
❺長浜・徳円寺 馬頭観音像  ❻日光・輪王寺 三仏像

❼浅草寺駒形堂 馬頭観音像

馬頭観音をご本尊として祀るお寺は少ない。百観音霊場のご本尊
(❽)を見ても、100分の2となっている。西国三十三観音の
馬頭観音は、舞鶴市・松尾寺(まつのおでら)のご本尊。

この松尾寺は上記の中山寺、馬居寺と青葉山を挟んで京都側に
ある。丹後、若狭の馬頭観音と言えば、この3寺が有名だ。

石仏の馬頭観音は、路傍などいろんなエリアでも良く見かける。
かつては、庶民信仰となっていたことを物語っている。
❽百観音霊場のご本尊

地名から馬との関連が想像できるところは多い。駒込、駒場、
馬喰町、馬籠、群馬県 等々。これからは馬と関連する地名
と石仏の馬頭観音をもっと注目して行きたい。


【観音シリーズ】  つづく



2020年5月10日日曜日

法隆寺は国宝文化財の宝庫⑨<3堂宇のご本尊>


法隆寺の国宝仏像を概観してきた。いよいよ最終となる。
今回は、上御堂(かみのみどう)、西円堂(さいえんどう)、
大講堂(だいこうどう)のご本尊を取り上げたい。

上記3つのお堂の位置関係は西院伽藍・配置図(❶)の通り。
大講堂が回廊、中門と繋がり、金堂、五重塔を囲む。大講堂
の北方に上御堂、西方に西円堂が建つ配置となっている。

どの堂も当初の建物ではない。当初堂の発願者、造立者と
される人物に、天武天皇皇子の舎人親王や橘夫人、行基と
ビッグな名前が挙がる。法隆寺の歴史を感じさせる。

現堂宇建立の年代順は、1.大講堂、2.西円堂、3.上御堂
となっている。
❶西院伽藍・配置図

3堂宇の本尊(❷❸❹)は、いずれも丈六の堂々とした像。
制作年代順では、1.西円堂・薬師如来像、2.上御堂・釈迦
三尊像、3.大講堂・薬師三尊像となる。

西円堂の薬師如来像は脱活乾漆造。唐招提寺の廬舎那仏像、
東大寺法華堂の不空羂索観音像、興福寺の阿修羅像も同じ
脱活乾漆造であり、いずれも、天平時代の名作ばかりだ。

文化財としての造形面で見ると、後者の3像の影に隠れて、
西円堂の薬師像は目立たない存在となっていると感じる。
一方、庶民信仰面では「峯の薬師」としての存在感を発揮
している。

上御堂の釈迦三尊像は、10世紀前半、サクラ材の一木造。
木彫像と言えば、年代順にクス、カヤ、ヒノキが一般的で
あり、サクラはあまり見かけない。しかし、木彫像の用材
としてサクラ材もあったようだ(❺)。

大講堂の薬師三尊像は、10世紀末、ヒノキ材の一木造、
寄木造併用となっている。後の時代、一木造から寄木造へ、
用材がヒノキ材主流となる造像技法の魁(さきがけ)か?

❷西円堂・薬師如来像     ❸上御堂・釈迦三尊像

❹大講堂・薬師三尊像     ❺木彫像の用材 

法隆寺の国宝仏に、薬師如来像が3躯ある。元々、法隆寺の
建立は薬師如来を祀ることから始まっている。金堂の薬師像
光背には薬師像造立の経緯が銘記されている。法隆寺の本尊
は、嘗ては薬師如来だった。

薬師像以上に多いのは、観音菩薩像。国宝仏が4躯(阿弥陀
三尊像の脇侍像を含めると、5躯)。聖徳太子が観音の化身
と言われるだけに観音像が多いのも頷ける。

「法隆寺金堂壁画と百済観音」特別展中止を契機に、法隆寺
国宝文化財(仏像)を整理してみた。国宝仏一覧は❻の通り、
国宝彫刻は18件(仏像は17件の110躯)。
❻法隆寺 国宝彫刻一覧

法隆寺は、日本仏教の展開を考える上での源流であり、
聖徳太子は元祖のような存在と言える。法隆寺は鎮魂、
慰霊、祈りの心を脈々と伝えている。

コロナが蔓延し、世界中で多くの死者が出ている。先行き
が見えず、不安に思う人が多い。不安が敵意と結びつき、
攻撃的な言動が増えると社会心理学者の加藤諦三氏が指摘
している。氏は、こういう時こそ「自分をよく知る機会」と
捉えることの必要性も説いている。時間を有効に使いたい。

コロナはグローバリズムや自国第一主義に対する警鐘とも
思える。グローバリズムでヒト・モノ・カネ・情報が世界を
巡り、格差が生れ、大国の自国第一主義により、世界が分断・
対立となる。コロナ蔓延の下地となるのではないか?

聖徳太子の「和を以て貴しと為す」は、今こそ求められて
いるのではないだろうか。仏教の根本「寛容と利他の精神」
を持ちたい。

世界が連携し、心穏やかに過ごせる日が、一日でも早く到来
することを願って止まない。(合掌)
 

2020年5月5日火曜日

法隆寺は国宝文化財の宝庫⑧<大宝蔵院安置の仏像>


Ⅰ.大宝蔵院と大宝蔵殿
 法隆寺の宝物館とも言える大宝蔵院には、ぜひともお目に掛り
 たい国宝の仏像が何躯も安置されている。大宝蔵院は西院伽藍
 の北東建ち、並列する二棟(東西の宝蔵)を百済観音堂が繋ぐ
 構造となっている。

 大宝蔵院(百済観音堂)は、平成10年に落成した。大宝蔵院
 と東大門の間に「大宝蔵殿」と言う嘗ての宝物館がある(❶)。

 大宝蔵殿に安置されていた代表的な宝物が、新設の大宝蔵院に
 移され、大宝蔵殿は休館となった。しかし、その後、春秋期間
 限定で、通常拝観できない宝物の特別公開を「法隆寺秘宝展」
 として、毎年行っている。<今春はコロナで中止>
❶法隆寺の境内と大宝蔵院

Ⅱ.大宝蔵院の国宝仏像
 大宝蔵院のフロアマップ(❷)に代表的な宝物が明記されて
 いる(番号が①~⑦及び筆者が追記したA)。その中で今回
 取り上げる国宝の仏像に★印を付した。4件6躯。

 いずれの仏像も、大宝蔵院に安置されるまでに、固有の歴史
 を歩んで来た。過去の所在場所を見ただけでも時代の変遷を
 知ることになる。
❷大宝蔵院のフロアマップ

 (1)地蔵菩薩立像(❸右)
  地蔵菩薩は明治時代の神仏分離令、廃仏毀釈の嵐が吹き
  荒れる中で災難に遭った。廃仏毀釈でどれだけの遺産が
  失われたことか。
  
  地蔵菩薩は元々、奈良県桜井市の大神神社(おおみわ
  じんじゃ)神宮寺・大御輪寺(だいごりんじ)に安置
  されていた。この大御輪寺は廃寺となり、当時の本尊
  は、聖林寺に移管された十一面観音とのことだ。

  現存する最古の地蔵菩薩と言われる。また、法隆寺の
  ホームページでは「神像であったとする説もある」と
  の紹介をしている。いずれにしても、地蔵菩薩の形が
  定まっていない平安期に造られた像と言えるようだ。

 (2)観音菩薩立像(九面観音)(❹右)
  中国・唐から719年に請来された像。像高が37.6㎝
  の小像で白檀の香木で造られている。遣唐使が持ち
  帰ったものであれば、吉備真備や玄昉の時代となる。

  天皇で言えば、聖武天皇の先代、元正天皇の時代に
  なり、奈良時代が始まって間もない時期となる。

  この像の見事さは、持物、瓔珞、耳飾りに至るまで
  一木で造られていることだ。その超絶技法に驚く。

  十一面観音でなく、九面観音は珍しく、頭上で3面
  ずつ3組あるところが1面ずつ少なくなっている。
  本面を加えて9面となる。〔11-3+1=9〕
❸夢違観音像と地蔵菩薩像  ❹阿弥陀三尊像と九面観音像

 (3)観音菩薩立像(夢違観音)(❸左)
  夢違観音の読み方は「ゆめちがい」「ゆめたがい」の
  二通りある。名前の由来は「悪い夢を見ても、観音様
  にお祈りすれば、良い夢に変えていただける」との
  信仰が、江戸時代以降に広まったことによる。

  庶民信仰によって名づけられた観音様であり、どれだけ
  多くの人が参詣したかを物語る。

  造立は飛鳥時代(白鳳期)となっている。鼻の線と眉が
  繋がり、目元、口元が微笑むような顔立ちは、いかにも
  白鳳期の仏像の特徴を示している。
  
  かつては、法隆寺東院の絵殿(えでん)本尊として祀られ
  ていた。それ以前には、金堂内に安置されていたようだ。

 (4)阿弥陀三尊像(伝橘夫人念持仏)(❹左)
  夢違観音が造立後1000年も経った後、江戸時代の庶民信仰
  を基に名づけられたのに対し、阿弥陀三尊像は像造立当時
  の所有者名(?)か「伝橘夫人念持仏」と付されている。

  橘三千代(665年?~733年)は藤原不比等(659年~720年)
  の妻であり、光明皇后(701年~760年)の母である。
  橘三千代はこの三尊像をいつも礼拝し、何を念じていたの
  だろうか? 

  この当時、阿弥陀如来の信仰は、自分の極楽往生のためでは
  なく、悔過(けか、犯した罪や過ちを悔い改めること)や、
  死者の追善のために祈ったようだ。
  
  造立は、飛鳥時代(白鳳期)となっている。奈良時代初期
  に分類している解説も見かける。三尊像と厨子が一体と
  なって、極楽浄土の世界を見事に現出している。
  この三尊像も嘗ては、金堂内に祀られていたそうだ。

大宝蔵院に安置された国宝の仏像は、それぞれの辿った歴史
にも思いを馳せると、益々感慨深くなる。百済観音を含めると、
時代も飛鳥、白鳳、奈良、平安と時代を代表する仏像にお会い
できる。

いずれも、慈悲深い仏様である。自分のためでなく、人々の
ために祈ることの尊さを示されているように思える。