2021年12月18日土曜日

薬師寺の歴史と寺宝

古寺・名刹を参詣する際の事前準備に基礎知識となるものをまとめていた。
このことにより、実際の参詣がより内容の濃いものとなったように思う。
「古寺名刹の歴史と寺宝」シリーズ第二弾は薬師寺を取り上げた。

度を過ぎた情報収集は、素直な感動を阻害することにもなりかねないため
ほどほどが良いこともあり、注意を要する。

1.薬師寺の概要と略年表

  薬師寺の創建は、天武天皇が皇后・鸕野讚良(うののさらら、後の持統
  天皇)の病気平癒を発願して建立したお寺である。平城京遷都と共に、
  現在の地に移転された(❶)。

  薬師寺の歴史の中で注目したのは、「発願、堂塔造立」の歴史、次いで
  明治・大正の「神仏分離・廃仏毀釈から文化財保護」(❷)、そして
  昭和・平成の「白鳳伽藍復興」(❻)の3点である。

  薬師寺の造立は天武持統文武元明元正聖武と歴代天皇に引き
  継がれて行ったことが略年表(❷)から読み取れる。

  また、神仏分離や廃仏毀釈と言った、天下の愚策や妄動があった中、
  フェノロサ岡倉天心等のお蔭で貴重な国家的遺産が残された。

❶薬師寺の歴史と寺宝    ❷薬師寺略年表(一部)

2.国宝建造物
  国宝となっている建造物は2棟、「東塔」と「東院堂」である(❸)。
  東院堂建立の吉備内親王は、文武・元正天皇の姉妹であり、長屋王の后
  となった人物である。藤原氏との政争に巻き込まれ非業の死を遂げる。
  
  創建当時唯一の建造物が東塔である。建築美が「凍れる音楽」と称せら
  れる東塔が残っていたからこそ、白鳳伽藍の復興計画が可能となったと
  言える。
❸薬師寺の国宝建造物

3.白鳳伽藍復興の功労者
  明治期の薬師寺伽藍は廃仏毀釈の影響により荒れ果てていた(❹)。創建
  当初の伽藍復興は薬師寺積年の願いであった。そのような中、登場したの
  が、高田好胤管長だ。

  高田管長は金堂の復興資金10億円を集めるのに多くの人に働きかける勧進
  を始めた。さながら、東大寺復興を果たした鎌倉時代の重源、江戸時代の
  公慶のようだ。ところが、「タレント坊主」などと揶揄されることもあり、
  資金調達は難航した。

  人は誰でも心にオアシス(仏心 ほとけごころ)持っている。「写経に
  よって、心のオアシスを掘り当てませんか」の訴えが人々の琴線に触れ、
  写経納経が急増した。写経勧進が100万人に到達し、目標達成となった。
  (納経料1000円×100万人=10億円)

  また、高田管長が選んだ伽藍再建の宮大工は「鬼」と称された日本一の
  宮大工、西岡常一棟梁だった(❺)。最強のコンビがタッグを組むことで
  復興計画が進められた。宮大工 西岡常一の遺言『鬼に訊け』という記録
  映画(❺)は、一見の価値がある。

  最近、NHKプロジェクトX挑戦者たちという番組で『薬師寺 幻の金堂 
  ゼロからの挑戦』として紹介(再放送)され、懐かしく視聴した。 
❹明治期の薬師寺伽藍    ❺白鳳伽藍復興の功労者

4.白鳳伽藍復興の推移
  白鳳伽藍の復興は、金堂に始まり、西塔、中門、大講堂、食堂と進んで
  いった。間に、玄奘三蔵院と言う新たな伽藍も建立されて行った(❻❼)。
  国宝東塔の大修理も2020年に完了し、再び優美な姿を目にすることが
  できるようになった。
❻白鳳伽藍復興の落慶   ❼復興した白鳳建造物

5.堂塔のご本尊は名品揃い
  白鳳伽藍に安置された仏像と言えば、金堂の薬師三尊像東院堂の聖観音
  像。金銅仏の中で美しさで1、2を競い合う尊像と言える(❽、❾)。

  また、大講堂では、弥勒如来を中尊に、両脇に無著像世親像が配置され
  ている(❿)。同じような尊像配置は、興福寺北円堂(⓫)で観ることが
  できる。これは、法相宗寺院ならではの配置のようだ。法相教学の系譜
  ついて、次にまとめた。
❽金堂の薬師三尊像    ❾東院堂の聖観音像

❿大講堂の弥勒像と脇侍像  ⓫興福寺の弥勒像と脇侍像

6.法相教学の系譜と唯識思想
  仏教はインドで生まれ、中国へ渡り、日本へもたらされた。法相宗の基と
  なる法相教学は「弥勒」の瑜伽唯識説無著・世親の兄弟が大成させた。
  この弥勒は、未来仏の弥勒とは別でありながら名前が同じことから同一視
  されるようになったとのことだ。

  次に、玄奘三蔵は経典を求めてインドを旅し、経典を中国へ持ち帰った。
  持ち帰った経典を漢訳し、法相教学を体系づけたのが玄奘三蔵と弟子の
  慈恩大師である。

  そして、遣唐使として唐へ渡り、玄奘三蔵に師事し、法相教学を学んだ
  のが道昭となる(⓬)。これが、法相教学の系譜と言える。この道昭は
  略年表(❷)698年「大僧都に任ぜられる」とある。日本における
  法相宗の開祖と言われる。

  法相宗の唯識思想とは、「見る人によりそれぞれの世界であり、客観的
  に同一の世界ではない」と言う事だ。見方が変われば世界も変わるとも
  言える。

  薬師寺、興福寺の法相宗寺院で弥勒如来、無著・世親、玄奘三蔵、慈恩
  大師が祀られるのは法相教学の系譜にあるからである。
⓬法相教学の系譜と唯識思想

7.その他所蔵の国宝文化財(図像や神像)
  国宝で色彩も鮮やかな図像に「吉祥天像」と「慈恩大師像」がある。共に
  法要の際に、堂内に安置されるようだ。吉祥天像は正月に行う「吉祥悔過
  法要」で金堂薬師三尊像の御宝前に祀られる。

  慈恩大師像は、「慈恩会」(慈恩大師の忌日11月13日)に大講堂に掲げら
  れるとのことだ。

  休ヶ岡八幡宮の八幡三神像は国宝の小像である。石清水八幡宮が創建され
  て以来、寺院の鎮守社、守護神として八幡神が勧請された。神仏習合が
  進んだ結果である。神像の国宝は全国6件13軀しか指定されていない。
  その中の1件3躯が本像であり、大変貴重な神像と言える。
⓭吉祥天像、慈恩大師像   ⓮休ヶ岡八幡宮の神像

8.玄奘三蔵院伽藍の仏像と壁画
  玄奘三蔵は法相宗の鼻祖に当たり、遺徳を顕彰するために玄奘三蔵院伽藍
  は建立された。玄奘塔には玄奘の彫像(⓯)とともに、ご遺骨も祀られて
  いる。ご遺骨は次のような経緯で薬師寺に安置されるようになったそうだ。

  昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵の
  ご頂骨(頭部の遺骨)を発見し、その一部が全日本仏教会に分骨され、
  更に、玄奘三蔵所縁の寺院として薬師寺に分骨されたとのことだ。正に
  仏舎利のようにも思える有難いお骨だ。

  また、玄奘三蔵院には平山郁夫画伯の大塔西域壁画7場面13枚全長49mの
  大作が掲げられている。壮観であり、画伯の仏教への熱い思いを感じさせ
  る。
⓯玄奘三蔵院伽藍の仏像・壁画

2021年11月20日土曜日

飛鳥寺・元興寺の歴史と寺宝

本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院が「法興寺」と言われる。
蘇我馬子が蘇我氏の氏寺として建立したものだ。その法興寺は時代が
下って、「飛鳥寺」と「元興寺」となる。その歴史と寺宝をまとめた。
なお、飛鳥寺の寺名は通称名であって正式名称ではないようだ。

1.飛鳥寺・元興寺の歴史的変遷(❶❷)
 (A)法興寺は平城京遷都で移転寺院と残留寺院に分かれる
   法興寺の寺名は「仏法興隆」から「法」と「興」の2字を取った
   と言う。「法」と「隆」の2字を取ったのが「法隆寺」となる。

   遷都の際、移転と残留に分かれ、移転寺院が「元興寺」となり、
   残留寺院が「本元興寺(もとがんごうじ)」と呼ばれた。
   現在の宗派、ご本尊についても記した。元興寺は3つのエリアに
   分かれている(❶)。

   仏教公伝後、「法興寺」造立から平城京への移転(718年)まで
   の推移は❷の年表の通り。関連する年号に〇印を付した。
   注目するのは、法興寺の完成が596年、本尊の丈六釈迦如来像完成
   が606年。その間、本尊はどうなっていたのだろうか?

❶飛鳥寺・元興寺の歴史   ❷古代寺院史の略年表

 (B)蘇我氏と大王家の系図、丁未の乱(ていびのらん)
   法興寺を創建した蘇我馬子とは、どのような人物であったか。蘇我氏
   と大王家との関係を示す系図(❸)の通り、蘇我氏は大王家と極めて
   強い繋がりがある。蘇我馬子は聖徳太子の大叔父であり、後に義父
   なる。
   
   丁未の乱によって、宿敵・物部守屋を討ち破り、政権における不動の
   地位を確立した。そして、日本最初の寺院、法興寺の造営を始める。

   先日放映されたNHKドラマ『聖徳太子』では、太子は仏法を馬子から
   学び、丁未の乱では、馬子側に付き参戦する(❹)。十七条憲法成立
   の過程も描かれており、大変興味深い。「和を以て貴しとなす」が
   新羅との戦争回避の指針となっていたとは新鮮な驚きだ。

   また、太子は丁未の乱参戦に際し勝利の暁に四天王寺を建立すること
   を誓願したと言う。この時、太子は13~14歳であり、何と早熟のこと
   かと驚く。
❸蘇我氏と大王家の系図  ❹蘇我氏と物部氏の争い

 (C)古代寺院の伽藍配置変遷
   法興寺の遺構は「飛鳥寺跡」として国指定史跡となっている。昭和31、
   32両年度に奈良国立文化財研究所の発掘調査で一塔三金堂が確認され、
   昭和41年4月21に文化庁から指定を受けた。この時「法興寺跡」では
   なく、広く親しまれ、典拠もある寺名とし「飛鳥寺跡」での登録とし
   たそうだ(❺)。

   伽藍配置は寺院の名を冠した「〇〇寺式」と言われる伽藍配置でその
   変化を確認できる。伽藍の中心が塔から金堂へ移って行く段階を表し
   ている(❻)。飛鳥寺式の配置は百済には見られず、高句麗で発見さ
   れたとのことだ。いかにも派手な構えに思える。
❺法興寺の伽藍配置      ❻伽藍配置の変遷
 (D)「ならまち」と現在の元興寺境内
   「ならまち」地域が都市として発展したのは、平城京遷都(710年)に
   多くの社寺が置かれたことに始まり、中世以降、元興寺旧境内に様々な
   産業が興り、町が形成されていったそうだ。

   「ならまち」と元興寺の状況は❼の通り。元興寺旧境内がいかに広大で
   あったかも想像できる。現在、元興寺は3つのエリアに分かれている。
   即ち、極楽坊塔跡小塔院跡。宗派も真言律宗華厳宗の二つに分か
   れる。(❶の2)
❼ならまちと元興寺

飛鳥寺跡は遺構として地下に埋まり、元興寺旧境内は「ならまち」として
庶民の生活の場となっている。時代の流れの中でいかに変化や対応をして
行ったかを如実に物語っている。次は寺宝についてまとめたい。

2.飛鳥寺・元興寺の寺宝
  (A)飛鳥寺
    日本最古の仏像こそ、飛鳥寺のご本尊・釈迦如来坐像。飛鳥大仏
    の方が馴染み深い。現在の金堂は、法興寺の中金堂と重なる位置
    に建つ。従って、飛鳥大仏は造立以来ずっと同じ場所に鎮座され
    ている。造立が606年であるから今年で1415歳になられる(❽)。

    飛鳥寺創建には聖徳太子の存在が大きい。聖徳太子孝養像は全国
    の寺院で良く見かけるものの、飛鳥寺の像は、特に印象深く感じ
    る像と言える(❽)。
❽飛鳥寺の仏像

 (B)元興寺(極楽坊)<真言律宗元興寺>の宝物
   元興寺(極楽坊)では、国宝の本堂と禅室が目を引く。いずれも
   鎌倉時代の建築であり、柱や瓦などは飛鳥~奈良時代のものが、
   残っている(❾)。

   極楽坊ならではの宝物は五重小塔(国宝)と智光曼荼羅(重文)
   と思われる(❿)。五重小塔は奈良時代に造られたものであり、
   保存が良く、奈良時代の建築を知るうえで貴重な資料となって
   いる。

   智光曼荼羅は奈良時代の元興寺僧・智光(ちこう)が感得した
   極楽浄土を僧房の画工に描かせたものである。そのことから、
   極楽坊の呼称が生れたとのことだ。浄土信仰の寺となった所以
   である。

   平安時代に空海が請来したものが曼荼羅であり、智光曼荼羅の
   名称は、後年に付けられたものではないか? 「浄土変相図
   と呼ぶのが正しいようだ。 
❾国宝建造物 本堂と禅室   ❿五重小塔と智光曼荼羅

   元興寺は、庶民信仰の寺として、「浄土信仰」以外にも「地蔵信仰」
   「(聖徳)太子信仰」「(弘法)大師信仰」が続いている。そのため
   名作の聖徳太子像(⓫)や弘法大師像(⓬)がある。聖徳太子の化身
   とされる如意輪観音像(⓬)も素晴らしい。
⓫聖徳太子2歳像、16歳像   ⓬如意輪観音像、弘法大師像

 (C)元興寺(塔跡)<華厳宗元興寺>の寺宝
   元興寺の伽藍は、中門を挟んで東に大塔西に小塔があった。現在は
   史跡として塔跡、小塔院跡となっている。塔跡は華厳宗元興寺として
   貴重な宝物を所蔵している(⓭)。
  
   奈良国立博物館でお目に掛る国宝の薬師如来像は、元興寺所蔵の像が
   寄託されている。国宝の薬師如来像は、全国で13軀あり、その中の
   1躯である。また、本尊の十一面観音は頂上仏面に特徴があり、魅力
   的な像だ。
⓭元興寺(塔跡)の案内板  ⓮薬師如来像、十一面観音像

 (D)元興寺(小塔院跡)<真言律宗元興寺>
   東の大塔に対し、西の小塔であり、こちらの小塔には五重小塔(❿)
   が安置されていたようだ(⓯)。小塔院跡と言われる史跡であり、今
   は、小さなお堂があるだけとなっている(⓰)。
⓯元興寺(小塔院跡)案内板  ⓰元興寺(小塔院跡)の境内

以上、日本最初寺院・法興寺(飛鳥寺)から元興寺への歴史と宝物を
ざっくりとまとめてみた。参詣の際に、ご参考となることを願う。




2021年10月20日水曜日

古寺名刹参詣の自分流楽しみ方

毎年、数回は奈良、京都の古寺名刹を参詣している。コロナのために、
昨年から参詣が叶わず、寂しい思いをしている。古寺の境内や堂塔に
身を置くと、立ちどころに創建当時のいにしえにタイムスリップする。
また、ご本尊や諸尊像とのご対面はこころが浄化されるようで、至福の
時間となる。

古寺名刹参詣は1回で3度楽しめると思っている。最初に計画と下調べ
の楽しみ、次に本番、お目当ての寺院堂塔を巡り、鎮座されるご尊像を
拝観する楽しみであり、これが一番であることは言うまでもない。

3度目は帰宅後、写真や絵葉書から探訪記を記録することの楽しみ。
(探訪記はパワーポイントやブログにすることで次の楽しみにも繋がる。)
修学旅行の大人版ではないだろうか?

参詣の下調べとして寺院創建の縁起や歴史を知る。いつ頃誰が何の
ために創建したお寺かを知ると、創建時に思いを馳せることができる。

奈良・京都の代表的な古刹について、創建縁起などをまとめたものを
❶図に掲載。時代区分毎、創建年順に、開基者・発願者、創建目的を
簡潔に記した。また、ご本尊が文化財指定の尊像かも追記した。

❶代表的な古刹の縁起
漫然として参詣するより、該当寺院のアウトラインを把握した上で、
訪れると、中身の濃い拝観ができるようになる。実際には、もっと
詳しく歴史的な変遷や、所蔵仏像の来歴などを調べる。個別寺院の
詳細は、次回以降にご紹介させて頂く。

更に、仏教の変遷を時系列的に掴んでおくことで、該当寺院の歴史的
な位置づけも把握でき、参考となる。変遷を一覧表にまとめたものが
❷図となる。これは高校生向けのテキストから抜粋・編集した。
❷仏教の変遷

興味のあることを調べ、学び、まとめることは何ものにも代えがたい
楽しみであり、同好の士と分かち合えることは更なる喜びとなる。


2021年9月11日土曜日

<神仏習合❽> 曼荼羅と霊場

1.宮曼荼羅(みやまんだら)

神社や寺院の風景とそこに祀られている神仏を斜め上から描いた絵画
がある。「宮曼荼羅」(①)と呼ばれている。①左から「山王宮曼荼羅」
「春日宮曼荼羅」、「熊野曼荼羅」。宮曼荼羅の絵画制作は平安時代
始まり、遺品は鎌倉時代以降のものが多いようだ。

絵画には風景に合わせ神仏が描かれている。本地垂迹(ほんじすいじゃく)
と言う思想により、本地仏が垂迹神となって、この世に現れたとされた。
山王宮曼荼羅の上部には、最上段に本地の仏・菩薩を、その下に垂迹の
神々を横一列に描く。正に神仏習合の世界となっている。(②)

①宮曼荼羅(3幅)    ②山王宮曼荼羅 上部

2.参詣曼荼羅(さんけいまんだら)

「宮曼荼羅」が更に大衆化したものに「参詣曼荼羅」と呼ばれる絵画がある。
「那智参詣曼荼羅」「伊勢参詣曼荼羅」「富士参詣曼荼羅」「立山曼荼羅」
「高野山参詣曼荼羅」などがある。(③、④)

日本各地の有名な神社や寺院、あるいは霊場などへの参詣を呼びかけ、寄付
を募る
ために作成されたそうだ。いわば参詣案内ようなものだ。
時期的には、16世紀から17世紀、中世末期から近世の初め頃の時代と言う。

ここまで来ると、寺社への参詣もイベント化し、一般大衆の参加も多くなる
のは必然である。「熊野比丘尼(くまのびくに)」「御師(おし、おんし)」
「高野聖(こうやひじり)」と呼ばれる人達が参詣者を募るのに一役買った。
参詣曼荼羅の絵画を使って、絵解き(えとき)をし勧誘した。

③参詣曼荼羅(那智・伊勢)  ④那智参詣曼荼羅 中央部分

「宮曼荼羅」「参詣曼荼羅」と日本独自の変遷を遂げて来た。空海が唐から
請来した曼荼羅とは全く異なるものになった。そこで、次に、空海請来の
曼荼羅について触れておきたい。

3.空海請来の曼荼羅「両界曼荼羅」

空海が唐から請来した曼荼羅は密教法具であり、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅
の両界曼荼羅からできている。即ち、世界の成り立ちを示した胎蔵界と悟りへ
の道筋を示した金剛界の二つである。(⑤)

私のイメージする胎蔵界曼荼羅は「万物が共生し、山懐に抱かれたような感覚
になる世界」であり、金剛界曼荼羅は「閉ざされた門をこじ開けながら、前進
して行く様を表現している」ように感じられる。胎蔵界が慈悲なら、金剛界は
智慧を表している。個人的には胎蔵界曼荼羅に惹かれる。

曼荼羅の世界と言った場合は胎蔵界曼荼羅のことではないかと思える。万物
を受け入れる姿勢こそ曼荼羅に相応しい。神仏習合も当然の帰結と言える。

⑤両界曼荼羅

4.神仏習合まとめ

空海は高野山を開くにあたり、地主神である狩場明神(かりばみょうじん)
と丹生明神(にうみょうじん)祀った。以来、真言宗ではこの二柱の神を
尊崇し続けているとのことである。

哲学者の梅原猛氏は、あるテレビ番組の解説で、次のように言われた。
「高野山の鬱蒼と茂る森の中で、空海という真言密教の偉大な行者の呪力
 によって神と仏は固く手を結んだ。この神仏習合の霊的な光は当時ばか
 りか、後世の日本を遍く照らし日本という国の精神を創造したのである。
 偉なるかな空海、偉なるかな弘法大師」

<神仏習合 完>


2021年8月26日木曜日

<神仏習合❼> 救いの仏 聖林寺 十一面観音

今回は、奈良県桜井市の聖林寺・十一面観音像にスポットを当てる。
奈良時代の神仏習合で大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺に祀ら
れた。そして、明治時代の神仏分離令廃仏毀釈の嵐に見舞われた。
その災難を乗り越えて、優美な姿を残しているのは正に僥倖としか
言いようがない。

東京国立博物館で「聖林寺十一面観音-三輪山信仰のみほとけ」(①)
が、現在開催されている。NHKの歴史秘話ヒストリアと言う番組でも
取り上げられ、「1300年奇跡のリレー国宝聖林寺十一面観音」(②)
が放映された。残念ながら、この番組は終了となってしまい、好きな
番組が一つ減った。

①東京国立博物館特別展    ②NHK歴史秘話ヒストリア

1.大神神社の神宮寺・大御輪寺(だいごりんじ)に祀られた理由は?
  「歴史秘話ヒストリア」で紹介されていた。

  奈良時代は、自然災害、疫病、戦乱が続き、時の神祇伯(じんぎはく)
  文室浄三(ふんやのきよみ、じょうさん)は、十一面観音像を造立する
  ことを決定した。神祇伯とは神祇官の長官のことであり、神祇官とは国
  の祭祀を司る行政機関のことを言う。

  神祇伯が救いを神でなく、仏に求めたことは神仏習合の思想が浸透して
  いたことを物語る。日本書紀に大神神社大物主神を祀ることによって
  災いが収まったとの記録あり、文室浄三はこれに倣い、観音像を祀った。

  文室浄三とは天武天皇の孫、長親王(ながのしんのう)の子、智努王
  (ちぬおう)のことであり、臣籍降下により文室浄三と改名した。
  称徳天皇(孝謙天皇重祚)の後継者選びに際し、時の右大臣 吉備真備
  (きびのまきび)から推挙される程の人物である。然しながら、藤原氏
  の思惑で白壁王(天智天皇の孫)が選ばれ、光仁天皇として即位する
  こととなった。(③④)

③天智天皇系譜       ④天武天皇系譜

  十一面観音像を祀ったお堂は大神神社の神宮寺・大御輪寺であり、現在
  大直禰子神社(おおたた ねこじんじゃ)となっている。
⑤大神神社境内 案内マップ ⑥大直禰子神社(旧大御輪寺)

2.廃仏毀釈の嵐をどう乗り越えたか?
  仏像を大切に思う人が護ろうとしてくれたからこそ、今日に伝えている。
  大神神社の大御輪寺では祀ることができなくなり、安置先を近くの聖林寺
  に遷すこととなった。

  その時の覚書が「歴史秘話ヒストリア」で紹介されていた。(⑦⑧)
  『本尊十一面観世音』『脇士地蔵尊』とある。(⑧該当箇所に赤い線)
  その後、地蔵尊については、聖林寺から更に法隆寺へと遷って行った。
  (⑨)

  廃仏毀釈によって、たくさんの仏像が破壊された。その圧力にも負けず、
  よくぞ、護り抜いた頂いたと敬服する。大御輪寺、聖林寺、法隆寺の
  お坊さんに立派な方が揃っていたからこその賜物と言える。
⑦大御輪寺から聖林寺への覚書  ⑧同左覚書(部分の拡大)

⑨大御輪寺に祀られていた仏像

  そして、文化財としての価値を訴え、保護に尽力した人物がフェノロサ
  と岡倉天心(➉)である。法隆寺夢殿の救世観音を初めて目にした時の
  驚きと同じように、聖林寺の十一面観音の優美さに感動していた。

  その時、天心が書いたメモが残っている。(⑪)"tall graceful type"
  と、走り書きするとは、いかにも英語に堪能な天心らしい。この二人に
  よって、「文化財」と言う概念がもたらされることとなった。
  「神仏習合」から「神仏分離」「廃仏毀釈」へ。そして「文化財」へと
  変遷し、仏像が保護された。
➉フェノロサと天心       ⑪天心のメモ

<続く>

2021年8月20日金曜日

<神仏習合❻> 杉並区の八幡宮・八幡神社

杉並区の八幡宮・八幡神社は下に掲示の一覧表の通りである(①)
(東京神社庁HPによる)
筆者の自宅近くにある神社でありながら、今まであまり注目して
眺めていなかった。改めて、その由緒等確認して行きたい。

①杉並区の八幡宮・八幡神社一覧

1.ご祭神について
  先ず、ご祭神に注目すると、応神天皇(八幡大神)だけの一柱
  祀る神社は、井草八幡宮荻窪八幡八幡神社の3社。

  大宮八幡宮では、応神天皇の父母である、仲哀天皇と神功皇后を
  祀り、3柱となっている。宇佐神宮の比売大神(ひめおおかみ)に
  代り、仲哀天皇が加わり、3神の中の1神となっている。いわば
  ファミリーでまとめたような印象がある。

  天沼八幡では、比売大神の中から市杵島姫命を選び、2柱で祀る。
  ここでは、市杵島姫命が弁才天と習合したことを意識して祀って
  いるようであり、宇佐神宮での比売大神を引き継いだのではない
  のかもしれない。

  ここで、ご祭神の祀り方を次のように分類してみた。
  Aタイプ…総本宮の宇佐神宮と同じく、八幡大神、比売大神、
       神功皇后の三柱を祀る
  Bタイプ…Aタイプの比売大神を別の神に代え、三柱を祀る
  Cタイプ…八幡大神ともう一柱の神で二柱を祀る
  Sタイプ…八幡大神の一柱だけを祀る

  この基準で見ると、杉並区の八幡宮・八幡神社は
   B(1)、C(1)、S(3)となる。

日本三大八幡宮について】
 ここで日本三大八幡宮(②)のご祭神を見て、比較してみたい。
 三大八幡宮と言う時に、宇佐神宮、石清水八幡宮に筥崎宮が、加わる
 場合と、鶴岡八幡宮が加わる場合の二通りがあるようだ。
 
 各神宮のご祭神は次のようにタイプ分けされる。
 宇佐神宮…A、石清水八幡宮…A、筥崎宮…B、鶴岡八幡宮…A or B

 いずれも、三柱を祀っていることは共通する。筥崎宮では、玉依姫命
 (たまよりひめのみこと)と言う神武天皇の母君となっている。
 鶴岡八幡宮の比売神(ひめがみ)は諸説あり、比売大神のことかどうか
 は定かではない。従って鶴岡八幡宮の分類をA or Bとした。
②日本三大八幡宮  
 【比売大神について】
  宇佐神宮での比売大神とは、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)
  から誕生した三女神のことであり、田心姫神(たごりひめのかみ)、
  湍津姫神(たぎつひめのかみ)、市杵島姫神のことを言う。
  市杵島姫神は弁才天と習合したことで、特に有名になっている。

  ところで、三女神なら三柱であろうに、比売大神を一柱とされている
  ことも謎だ。

  同じ八幡宮・八幡神社と言っても、ご祭神の祀り方が違っていること
  が分かる。共通しているのは八幡大神だけである。今後は、八幡宮・
  八幡神社のご祭神をタイプ別にA,B,C、Sでチェックするのも面白い。

2.神社の創祀・創建年代
  上記の一覧表(①)で、神社の形態がとられた年代を順に見ると、
  ①荻窪八幡…寛平年間(900年頃)
  ②大宮八幡…康平六年(1063年)
  ③井草八幡…平安時代末期
  ④八幡神社…長録元年(1457年)
  ⑤天沼八幡…天正年間(1573年-1591年)

  京都の石清水八幡宮の創建が貞観二年(860年)であるから、荻窪
  八幡はその直後と言える。大宮八幡宮は鎌倉の鶴岡八幡宮と創建年
  が同じ。

 【石清水八幡宮創建について】
  ②記載内容の中で、注目するのは石清水八幡宮の創建についてである。
  創建者が大安寺の僧、行教(ぎょうきょう)和尚となっている。僧侶
  が神社を創建するとは奇異な感じがする。
  
  石清水八幡宮 宮司の田中恆清氏がある講演会で、次のように話され
  ている。
  『奈良の僧行教が宇佐八幡大神のお告げを受け、翌年、男山に八幡神
   を勧請したのが始まりです。僧である行教が創建したことから分か
   るように、当初から仏教色の濃い神仏習合の宮寺(みやでら)で、
   国家鎮護の神として、歴代天皇が参詣するなど、伊勢神宮に次ぐ、
   「天下第二の宗廟」として信仰を集めました。』

  宇佐神宮が平城京の守護神であり、石清水八幡宮 は平安京を護る役割
  を担っていた。地理的にも、平安京の裏鬼門(南西)に建立された。

 【鶴岡八幡宮創建について】
  ②に記載の通り、鶴岡八幡宮の創建者は源頼義(みなもとのよりよし)
  である。頼朝から5代前に当たる源氏の棟梁。(③源氏略系図 参照)
  石清水八幡宮に戦勝祈願し、そのお礼に創建したのが鶴岡八幡宮。
  
  聖徳太子が生駒山で戦勝祈願し、勝利後に四天王寺を建立した逸話と
  重なる。
③源氏略系図

以上を総括すると、杉並区の八幡宮・八幡神社の中で、大宮八幡宮、
井草八幡宮、荻窪八幡は源頼義の凱旋によって創建、整備されたこと
は明らかである。また、頼義の子、八幡太郎義家は、石清水八幡宮で
元服したから、そのような名がつけられた。石清水八幡宮との因縁が
深く、源氏の守護神にもなって行く。

<続く>