2021年11月20日土曜日

飛鳥寺・元興寺の歴史と寺宝

本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院が「法興寺」と言われる。
蘇我馬子が蘇我氏の氏寺として建立したものだ。その法興寺は時代が
下って、「飛鳥寺」と「元興寺」となる。その歴史と寺宝をまとめた。
なお、飛鳥寺の寺名は通称名であって正式名称ではないようだ。

1.飛鳥寺・元興寺の歴史的変遷(❶❷)
 (A)法興寺は平城京遷都で移転寺院と残留寺院に分かれる
   法興寺の寺名は「仏法興隆」から「法」と「興」の2字を取った
   と言う。「法」と「隆」の2字を取ったのが「法隆寺」となる。

   遷都の際、移転と残留に分かれ、移転寺院が「元興寺」となり、
   残留寺院が「本元興寺(もとがんごうじ)」と呼ばれた。
   現在の宗派、ご本尊についても記した。元興寺は3つのエリアに
   分かれている(❶)。

   仏教公伝後、「法興寺」造立から平城京への移転(718年)まで
   の推移は❷の年表の通り。関連する年号に〇印を付した。
   注目するのは、法興寺の完成が596年、本尊の丈六釈迦如来像完成
   が606年。その間、本尊はどうなっていたのだろうか?

❶飛鳥寺・元興寺の歴史   ❷古代寺院史の略年表

 (B)蘇我氏と大王家の系図、丁未の乱(ていびのらん)
   法興寺を創建した蘇我馬子とは、どのような人物であったか。蘇我氏
   と大王家との関係を示す系図(❸)の通り、蘇我氏は大王家と極めて
   強い繋がりがある。蘇我馬子は聖徳太子の大叔父であり、後に義父
   なる。
   
   丁未の乱によって、宿敵・物部守屋を討ち破り、政権における不動の
   地位を確立した。そして、日本最初の寺院、法興寺の造営を始める。

   先日放映されたNHKドラマ『聖徳太子』では、太子は仏法を馬子から
   学び、丁未の乱では、馬子側に付き参戦する(❹)。十七条憲法成立
   の過程も描かれており、大変興味深い。「和を以て貴しとなす」が
   新羅との戦争回避の指針となっていたとは新鮮な驚きだ。

   また、太子は丁未の乱参戦に際し勝利の暁に四天王寺を建立すること
   を誓願したと言う。この時、太子は13~14歳であり、何と早熟のこと
   かと驚く。
❸蘇我氏と大王家の系図  ❹蘇我氏と物部氏の争い

 (C)古代寺院の伽藍配置変遷
   法興寺の遺構は「飛鳥寺跡」として国指定史跡となっている。昭和31、
   32両年度に奈良国立文化財研究所の発掘調査で一塔三金堂が確認され、
   昭和41年4月21に文化庁から指定を受けた。この時「法興寺跡」では
   なく、広く親しまれ、典拠もある寺名とし「飛鳥寺跡」での登録とし
   たそうだ(❺)。

   伽藍配置は寺院の名を冠した「〇〇寺式」と言われる伽藍配置でその
   変化を確認できる。伽藍の中心が塔から金堂へ移って行く段階を表し
   ている(❻)。飛鳥寺式の配置は百済には見られず、高句麗で発見さ
   れたとのことだ。いかにも派手な構えに思える。
❺法興寺の伽藍配置      ❻伽藍配置の変遷
 (D)「ならまち」と現在の元興寺境内
   「ならまち」地域が都市として発展したのは、平城京遷都(710年)に
   多くの社寺が置かれたことに始まり、中世以降、元興寺旧境内に様々な
   産業が興り、町が形成されていったそうだ。

   「ならまち」と元興寺の状況は❼の通り。元興寺旧境内がいかに広大で
   あったかも想像できる。現在、元興寺は3つのエリアに分かれている。
   即ち、極楽坊塔跡小塔院跡。宗派も真言律宗華厳宗の二つに分か
   れる。(❶の2)
❼ならまちと元興寺

飛鳥寺跡は遺構として地下に埋まり、元興寺旧境内は「ならまち」として
庶民の生活の場となっている。時代の流れの中でいかに変化や対応をして
行ったかを如実に物語っている。次は寺宝についてまとめたい。

2.飛鳥寺・元興寺の寺宝
  (A)飛鳥寺
    日本最古の仏像こそ、飛鳥寺のご本尊・釈迦如来坐像。飛鳥大仏
    の方が馴染み深い。現在の金堂は、法興寺の中金堂と重なる位置
    に建つ。従って、飛鳥大仏は造立以来ずっと同じ場所に鎮座され
    ている。造立が606年であるから今年で1415歳になられる(❽)。

    飛鳥寺創建には聖徳太子の存在が大きい。聖徳太子孝養像は全国
    の寺院で良く見かけるものの、飛鳥寺の像は、特に印象深く感じ
    る像と言える(❽)。
❽飛鳥寺の仏像

 (B)元興寺(極楽坊)<真言律宗元興寺>の宝物
   元興寺(極楽坊)では、国宝の本堂と禅室が目を引く。いずれも
   鎌倉時代の建築であり、柱や瓦などは飛鳥~奈良時代のものが、
   残っている(❾)。

   極楽坊ならではの宝物は五重小塔(国宝)と智光曼荼羅(重文)
   と思われる(❿)。五重小塔は奈良時代に造られたものであり、
   保存が良く、奈良時代の建築を知るうえで貴重な資料となって
   いる。

   智光曼荼羅は奈良時代の元興寺僧・智光(ちこう)が感得した
   極楽浄土を僧房の画工に描かせたものである。そのことから、
   極楽坊の呼称が生れたとのことだ。浄土信仰の寺となった所以
   である。

   平安時代に空海が請来したものが曼荼羅であり、智光曼荼羅の
   名称は、後年に付けられたものではないか? 「浄土変相図
   と呼ぶのが正しいようだ。 
❾国宝建造物 本堂と禅室   ❿五重小塔と智光曼荼羅

   元興寺は、庶民信仰の寺として、「浄土信仰」以外にも「地蔵信仰」
   「(聖徳)太子信仰」「(弘法)大師信仰」が続いている。そのため
   名作の聖徳太子像(⓫)や弘法大師像(⓬)がある。聖徳太子の化身
   とされる如意輪観音像(⓬)も素晴らしい。
⓫聖徳太子2歳像、16歳像   ⓬如意輪観音像、弘法大師像

 (C)元興寺(塔跡)<華厳宗元興寺>の寺宝
   元興寺の伽藍は、中門を挟んで東に大塔西に小塔があった。現在は
   史跡として塔跡、小塔院跡となっている。塔跡は華厳宗元興寺として
   貴重な宝物を所蔵している(⓭)。
  
   奈良国立博物館でお目に掛る国宝の薬師如来像は、元興寺所蔵の像が
   寄託されている。国宝の薬師如来像は、全国で13軀あり、その中の
   1躯である。また、本尊の十一面観音は頂上仏面に特徴があり、魅力
   的な像だ。
⓭元興寺(塔跡)の案内板  ⓮薬師如来像、十一面観音像

 (D)元興寺(小塔院跡)<真言律宗元興寺>
   東の大塔に対し、西の小塔であり、こちらの小塔には五重小塔(❿)
   が安置されていたようだ(⓯)。小塔院跡と言われる史跡であり、今
   は、小さなお堂があるだけとなっている(⓰)。
⓯元興寺(小塔院跡)案内板  ⓰元興寺(小塔院跡)の境内

以上、日本最初寺院・法興寺(飛鳥寺)から元興寺への歴史と宝物を
ざっくりとまとめてみた。参詣の際に、ご参考となることを願う。




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