2019年3月24日日曜日

「空海と所縁の寺院・仏像・曼荼羅」(Ⅲ)


前回、前々回(3月4日、2月25日にアップのブログ)から続き、
空海関連は三回目。空海の交遊の中で、もう一度、天皇との関係に
焦点を当てたい。

同時代に生きた人たちは、接点が持てる。空海と歴代天皇の生存年を
記した表が❶、❷。歴史上の人物は、このような表にして眺めると
同時代か否か、一目瞭然となる。

桓武から光孝までの天皇は空海と生存年が重なる。清和、宇多、陽成、
醍醐の天皇は空海死後の誕生であり、接点は無い。菅原道真も空海と
時間を共有することはできなかった。
❶空海が交遊した天皇A   ❷空海が交遊した天皇B

第50代 桓武天皇から第60代 醍醐天皇までの系譜(❸)、即位順
在位年(❹)から天皇即位の背景も垣間見える。藤原冬嗣、良房、
基経と藤原北家三代がいかに天皇家と繋がったかが分かる。
❸桓武~醍醐までの系譜    ❹天皇即位と在位年

遣唐使に派遣した桓武天皇から、弘法大師の諡号を贈った醍醐天皇
まで、空海の事績に関わる天皇は❺の通り。事績の中で、最大の
支援者は第52代嵯峨天皇。高野山、東寺を下賜され、真言宗を
公認された。

年齢的に、空海は嵯峨天皇の一回り上で、同じ干支。交流する上でも
ちょうど良い年齢差ではないかと勝手に推論した。

もう一つ注目したいこととして、仁明天皇が宮中に真言院を設置し、
「後七日御修法(ごしちにちみしほ)」を勅許されたこと。以後、
明治時代の神仏分離令まで、宮中において、仏教によるお祈りが
なされたことは、あまり知られていない。正に神仏習合の世界。

後七日御修法道場略図(❻)は「飛び不動のやさしい仏教入門」に
掲載されていたもの。3月26日から始まる特別展「東寺」で
後七日御修法が取り上げらる。どのようなものか興味津々。
 
❺空海の事績に関わる天皇  ❻後七日御修法道場略図
(再掲載)        (やさしい仏教入門から)





2019年3月4日月曜日

「空海と所縁の寺院・仏像・曼荼羅」(Ⅱ)


2月23日『阿佐谷地域区民センター開催の講演会
空海と所縁の寺院・仏像・曼荼羅)』について、
第2回リポート。前号(2月25日)に続く。

2.空海の交遊録(❼)
  交遊グループは、「親類縁者」「交流・対立の僧」「師」
  「遣唐使関連」「援助協力者」「十大弟子」の6グループ
  に分類。(週刊朝日百科掲載分から作成)

  空海は、誰もが認める天才。また交遊を見る限り、強運の
  持ち主であったと思われる。様々な人たちの出会いによって
  弘法大師・空海となって行った。

  先ずは、天皇・皇室との交流(❽)と空海十大弟子(❾)に
  ついて見て行く。日本仏教界の両巨頭、最澄、空海の関係は、
  別途改めて取り上げたい。
❼空海の交遊録 

  空海と同時代の天皇は第50代桓武天皇から第54代仁明天皇。
  その中で、特に深い繋がりがあったのは、第52代嵯峨天皇。
  嵯峨天皇がいなかれば、空海も、これほど大きな足跡を残す
  こともできなかったのでは?(各天皇と関わる空海の事績は
  ❽の通り)

  空海との関りにおいて特筆することは~
  第50代 桓武天皇・・遣唐使として派遣。
  第51代 平城天皇・・薬子の変の後、出家し空海に帰依。
             高岳親王は空海に弟子入り、十大弟子に。
  第52代 嵯峨天皇・・高野山、東寺を下賜。大覚寺開基。
  第53代 淳和天皇・・勅に答えて「秘密曼荼羅十住心論」著す。
             恒貞親王が大覚寺開山となる。
  第54代 仁明天皇・・宮中に真言院設置。後七日御修法を勅許。
  第59代 宇多天皇・・仁和寺開創。最初の門跡寺院。
  第60代 醍醐天皇・・醍醐寺を自らの祈願寺。弘法大師の諡号。

ここで注目することは、第54代仁明天皇の時に勅許された
後七日御修法(ごしちにちのみしほ)。これは、宮中真言院にて
1月8日から14日まで、「国家安泰」「玉体安穏」「五穀豊穣」
「万民豊楽(ばんみんぶらく)」を祈る行事。

空海によって始められたこの修法は一時、中断の時があるものの、
明治の廃仏毀釈によって廃止されるまで続いたそうだ。この歴史を
見ても、歴代天皇がいかに仏教を重んじていたかが良く分かる。
天皇は仏教徒であると言われる理由が理解できる。
❽天皇・皇室との関り

次に空海 十大弟子(❾)と真言宗の系譜(❿)について触れたい。
空海の付法弟子とされる十人は、真雅(しんが)が朝廷への言上に
よって確定した。

真言宗系譜において醍醐寺、仁和寺の存在は大きい。小野六流、
広沢六流で野沢十二流(やたくじゅうにりゅう)と言う真言宗
の各派へ繋がる。系図を見て分かるように、空海ー真雅の流れ
から出ている。真雅の存在が大きい。
❾空海 十大弟子

空海が恵果阿闍梨から伝法灌頂を受け(❿)、正式な後継者と
なる。千人もの弟子の中から選ばれたと言われる。なぜ、日本人
空海なのかとの疑問もわく。

恵果阿闍梨は、金剛智、不空から系譜から金剛界曼荼羅を、
善無畏、一行の系譜から胎蔵界曼荼羅を受け継ぐ。いわば
インド人から中国人へ伝えられた。次に、恵果は、日本人
の空海を、積極的に望んだのではないかとも想像される。

❿真言八祖と系譜

次回は、空海所縁の寺院について話した内容をリポートしたい。



2019年3月1日金曜日

日野市万願寺の安養寺を参拝!


2月28日(木)雨天の中、西荻グループの8名が日野市万願寺に
ある安養寺を訪れた。多摩モノレール「万願寺駅」に10時集合。
駅から一直線に進むこと、徒歩7分。前方に門柱(❶)が見える。

門柱には「真言宗智山派 田村山安養寺」と刻まれている。赤い
幟旗には「毘沙門天王」と書かれている。もう一方の門柱には、
多摩四国八十八ヶ所」「日野開運七福神」の文字が見える。

更に進むと、「田村山」の扁額が掛る山門(❷)に着く。門には、
関東八十八ヶ所霊場 第六十八番」と記されている。門前に立つ
石柱には「都指定有形文化財 木彫 阿弥陀如来坐像」の表記。

本堂と毘沙門天像は、日野市教育委員会の掲示板(❸、❹)記載
の通り、市指定有形文化財となっている。

安養寺は二つの霊場札所であり、七福神巡りの寺院にもなっている。
文化財としても阿弥陀三尊像が都指定、毘沙門天立像本堂が市指定
を受けており、信仰、文化財両面で、人を引き寄せるお寺と言える。
❶門柱            ❷山門

❸安養寺本堂の解説     ❹毘沙門天像の解説

山門を通り、境内に入ると、右手に修行大師像(❺)を目にする。
錫杖と鉢を持つ姿は、弘法大師像の中でも、代表的なスタイルだ。
先ずは、皆さん、お大師様を礼拝した。正面の本堂には文字が右から
左へ「安養寺」と書かれた扁額が掛っている。

幹事の井戸さんが参拝を予約されていた。来訪の旨を告げると、直ぐ
本堂へ案内された。
❺境内に立つ弘法大師像   ❻「安養寺」扁額の掛る本堂

本堂は、ガスストーブで既に温められていた。ご住職のお心遣いが
有難い。本堂外陣に並べられた椅子に、着席し、ご住職の懇切丁寧な
ご説明をじっくりお聴きした。

お話は安養寺の縁起や本堂の造立年など多岐にわたる内容を丁寧に
解説された。本堂改修のための解体によって、護摩壇の製造年を
示す墨書が分かり、本堂造立年の推定に繋がるお話は大変興味深い。

ご本尊の阿弥陀如来坐像は、前身の万願寺ご本尊であったようだ。
その万願寺は地名として残るものの、遺構は残っていない。現在
安養寺は、高幡不動尊金剛寺の末寺となっている。

須弥壇の前には護摩壇があり、間にはシャッターが下りるように
なっている。シャッターが下りると、須弥壇上の三尊像がすっぽり
収蔵庫に収められる構造になっている。ご本尊として祀ることと、
文化財として保護することの両立を図る工夫がなされていた。

いよいよご本尊を間近で拝観する。三尊像とも光背が付いている。
揃って光背があるのは珍しく、安養寺式舟形光背と呼ばれている
とのご説明があった。この光背が三尊像を一層引き立てている
ように感じた(❼)。
<画像は、いずれも安養寺で購入の冊子から>
❼本堂の阿弥陀三尊像

阿弥陀如来像の端正で、穏やかなお顔は、礼拝者に安心感を与える。
制作年代は11世紀後半頃で、一木造りから寄木造りに移行する
初期の頃。関東における重要な作品になっているとのことだ。本像
はヒノキの寄木造り、内側にも漆を塗布。像高は90cm。(❽)
❽阿弥陀如来坐像

前傾姿勢を取る観音・勢至菩薩像(❾❿)には頭上を覆うよう
な光背が付いている。金泥塗りのように渋く輝く金色が何とも
言えない有難みを感じさせる。

蓮台を捧げ持つ観音(蓮台は逸失か)と合掌する勢至の姿勢は
オーソドックスなスタイル。享保年間(18世紀前半)の作で
ヒノキの寄木造り。
❾勢至菩薩 ❿観音菩薩

須弥壇の向って右隅に毘沙門天立像が三尊像を守護するように
安置されている(⓫)。毘沙門天像に関連することを、ご住職が
詳細に解説された。

聖徳太子が蘇我氏側に付いて、物部氏と戦う際に、信貴山で戦勝
祈願をした。すると、毘沙門天が出現し、勝利へ導いてくれた。
そこで、毘沙門天を祀った。合わせて毘沙門天が出現した日時が、
「寅年、寅の日、寅の刻」であったことから寅(虎)も祀った。

堂内に張り子の虎が沢山置かれている理由が分かった。また、
真珠湾攻撃の暗号「トラ トラ トラ」が毘沙門天出現の説話
から取ったということも初めて知った。

「この毘沙門天立像は、平泉・中尊寺金色堂の持国・増長二天像
に近いものがあり、平安末期から鎌倉初期に制作されたことを
伺わせる」と言われている。ヒノキ寄木造り、像高123cm。
⓫毘沙門天立像

ご住職の石黒忠雅様は、福田亮成先生(大正大学名誉教授)から
ご指導を受けたことを知った。福田先生主宰の空海研究会で学習
していることをお伝えした。不思議なご縁を感じ、話が更に弾む
こととなった。

本堂の横にある位牌堂の扉を開けて、中をお見せいただいた。
歴代住職の位牌始め、多くの位牌が並んでいた。正面には智拳印
を結ぶ大日如来坐像(⓬)が鎮座。小ぶりの像ながら神々しさを
感じさせる。

位牌堂の前には、重さ500㎏のグランドピアノが置かれている。
定期的に本堂でコンサートを開かれているとのこと。安養寺が、
地域の人々が集まるコミュニティとなっている。
⓬大日如来坐像

お時間があるならと、地下室のホールにも案内された。
さながら、コンサートホールのようだ。部屋には金色に
輝く千手観音菩薩立像(⓭)が安置。
⓭千手観音立像

楽しく過ごすも、すでに12時近くなり、名残惜しく、退出した。
機会があれば、また訪れ、ご住職のお話をお聴きしたい。
⓮参拝し、本堂を出る    ⓯本堂を背に記念撮影

立川駅に戻り、駅ビルのレストランで歓談昼食。今回も充実
した見仏会となった。感謝(合掌)