2016年4月23日土曜日

小平花南仏像の会 横須賀の古刹探訪バスツアー


22日、花小金井駅南口 スーパーピーコック前に朝7時集合し、
横須賀、三浦の古刹探訪に出かけた。参加者は22名。
好天に恵まれ、爽やかな楽しいバスツアーとなる。

竹田会長の素晴らしい寺院選定により、楽しさ倍増の探訪と
なりました。三浦氏所縁の古刹巡りで、三浦氏の歴史に一層の
興味が湧いてきた。

参拝順は・・・
 ①浄楽寺(横須賀芦名)
   和田義盛(わだよしもり)建立の阿弥陀堂が浄楽寺の始まりのようだ。

 ②天養院(三浦市初声町和田)
   薬師三尊像は、安楽寺(廃寺)の本尊が昭和18年に移座された。
   安楽寺は、和田義盛邸宅の鬼門を守護するために建立された寺院。

 ③満願寺(横須賀市岩戸)
   佐原十郎義連(さはらじゅうろうよしつら)建立の寺院。

 ④満昌寺(横須賀市大矢部)
   源頼朝が三浦大介義明(みうらおおすけよしあき)の菩提を弔う
   ために発願し、建立された寺院。

和田義盛は三浦義明の孫。義盛の父は義明の長男・杉本義宗。
佐原義連は三浦義明の十男。和田義盛とは甥、叔父の関係。


1.浄楽寺 【金剛山 勝長寿院 浄楽寺】
  最初に、ボランティアガイドの方から境内の裏にある墓地に
  ご案内された。
  前島密翁のお墓があり、前島翁の功績について解説された。
  郵便事業始め日本の近代化に多大の貢献のあった方だ。
  翁は漢字廃止論者だったそうだ。この点だけは実現されずに、
  良かったと思う。
  もし、漢字が無くなっていたら、日本の伝統文化や、精神構造に
  どんな影響を及ぼしたか心配になる。
ボランティアガイドの解説を聴く
 
いよいよ、収蔵庫で運慶仏の拝観となる。ガイドはご年配の
男性に代わった。浄楽寺の歴史や、5体の仏像が運慶仏と
特定された経緯など、丁寧に解説された。

運慶作との仏像は沢山あるものの、確証があるものは
限られている。61体(?)とのこと。

関東では、静岡・願成就院、立川・真如苑、金沢文庫・称名寺に
ある運慶仏は確か。
運慶研究の第一人者、清泉女子大学の山本勉先生も、
よく学生を連れて来られ、その際お話を伺う機会がある
とのこと。先生の受け売りもあると言われた。
(正直で好感度)

中央には阿弥陀三尊像、一番奥(向かって右端)に不動明王、
手前(左端)に毘沙門天が安置されている。定朝の仏像が
平面的なのに比し、運慶仏は立体的、力強さ、写実的との解説。
(5体とも国重文) 阿弥陀三尊         毘沙門天 不動明王
 
鎌倉・光明寺の二世寂恵(じゃっけい)が廃れかけていた寺を再興し、
浄楽寺とした。浄楽寺は光明寺の末寺であり、浄土宗となっている。
不動明王を所蔵している点から密教系寺院の時期もあったことと
思われる。
 

2.天養院 【五劫山 天養院 宝泉寺】
  安楽寺本尊の薬師像は、和田合戦のとき、和田義盛が総身に
  負傷しながら痛さを感じなことに、周りの者が不思議に思っていた。
  その時、この薬師の顔から胸に傷ができ、血潮が流れていたと
  言われている。それで、ひびが入っているのか。
本堂             薬師三尊像文化財指定の解説板
 
薬師三尊像を拝観       像のそばに置かれた解説文

薬師如来坐像と両脇時像(通常、左脇侍が日光、右脇侍が月光)
 
薬師如来のお顔や身体の裂け目が痛々しく感じた。これが、
和田義盛身代わりの傷と後で知った。
 
また、安楽寺のご本尊だったことから、安楽寺建立時に造立
された仏像と思い込んでいた。ところが、11世紀に入った頃の
作とある。すると、この像は安楽寺建立の時、他のお寺から
移されたことになるのでは。何と数奇な運命の仏像だろうか。
 
お顔や、身体の裂け目とは別に、全体に虫食いが目立つ。
何とか早く補修しないと、大変なことになるのではと心配して
しまった。ぜひ、早く入院させて頂きたい。
 
 
3.満願寺 【岩戸山 満願寺】
  訪問すると、直ぐに収蔵庫へ案内された。4体の立像が
  目に飛び込む。中央の像は2mを越える大きな像。
  向かって左から毘沙門天、観音菩薩、地蔵菩薩、不動明王。
  観音菩薩は指定では菩薩立像となっている。
 
  「開基の佐原十郎義連が平家追討のため西海に赴くに
  あたり、19才の容姿を運慶に託して彫刻させたと
  伝えられている」とお寺の解説にはある。 
満願寺の諸仏と佐原十郎義連の墓 解説板

満願寺の本堂         仏像の解説板を読む皆さん

(国重文)菩薩立像・地蔵菩薩立像の解説     不動明王・毘沙門天の解説
 
 (国重文)木造菩薩立像・地蔵菩薩立像   毘沙門天立像・不動明王立像
 
地蔵菩薩立像のお顔が良い。目鼻立ちがくっきりした、
劇画的であり、快慶の特徴を感じさせていた。 
浄楽寺像と比べても甲乙付けがたい像に思える。
 
 
4.満昌寺 【義明山 満昌寺】
  源頼朝発願のお寺として格式の高いお寺と言える。
  鎌倉幕府の歴史書「吾妻鑑」に頼朝が三浦義明を
  弔うために、寺の候補地を調べさせている記録が
  あるとのこと。
 
  宝物館は五十段以上もある階段を上ったところにある。
  ご年配の方には少し大変な勾配となっている。自らライトの
  スイッチを入れて、国重文の三浦義明坐像などを拝観した。
 
  ご本尊を拝観したいとの要望があり、竹田会長がお寺と
  折衝された。急遽、ご本尊の拝観が許可され、皆さん
  本堂上がった。先代のご住職がお見えになり、お寺の
  縁起等、解説された。
 
  小平から来た旨をお伝えすると、お孫さんが学生の頃
  小平で過ごしたことを話され急に親近感を覚えるように
  なった。このお孫さんのお兄さんが、先ほどの満願寺で
  住職をされているそうだ。
 
  満昌寺が臨済宗に改宗する時の中興開山、天願慧広
  (てんがんえこう)は円覚寺開山・無学祖元の第一座
  (一番弟子)だったそうだ。先代ご住職は大変誇らしく、
  お話になっていた。
 
満昌寺の山門        満昌寺の由来解説板

満昌寺本堂
 
横須賀市指定文化財解説     本尊華厳釈迦像・天岸慧広像

宝物殿へ向かう階段脇の羅漢     階段を上る皆さん

 
宝物殿          (国重文)三浦義明坐像
 
三浦義明廟所 
 
今回は参拝できなかった清雲寺も興味深いお寺。ぜひ、
機会を作り訪ねてみたい。
 
昼食やお土産のお買い物時間も交え、楽しいバスツアーと
なりました。竹田会長始め会の皆さんには大変お世話になった。
三浦一族の歴史をもっと調べてみようと決意。






2016年4月21日木曜日

あきる野市 大悲願寺「伝・阿弥陀三尊像」ご開帳!


あきる野市の大悲願寺は国の重要文化財「伝・阿弥陀三尊像」を
所蔵されている。
立川駅ホームに集合、五日市線に乗り換えて、武蔵増戸駅で
降りる。武蔵増戸駅から線路沿いを歩くこと15分。お寺の塀と
見事な楼門が見えて来る。

重文の三尊像は本日と明日の二日間だけ、ご開帳となる。
年に2日間だけの有難い日と言える。

交通量も少ない道路を歩く     長い塀と門が見えて来る

楼門となった仁王門         仁王門の先に「無畏閣」
 
大悲願寺に到着し、お目当ての三尊像が鎮座する「無畏閣」に向かう。
すでにお堂の中は大勢の参拝者が着席されて、ご開帳を待っている。
ご開帳に先立ち、ご住職の講話が始まった。
ご開帳を待つ参拝者       「無畏閣」の扁額が掛かるお堂
 
「無畏閣」とは観音堂のことであり、このお堂のご本尊は本来、観音菩薩
だったようだ。ご本尊は伝・阿弥陀三尊像。中尊の阿弥陀像は通常の
弥陀定印でなく、釈迦如来と同じ法界定印となっている。
 
ご住職の話によると、中尊が阿弥陀と特定する理由が二つあるそうだ。
一つは、中尊の光背にある種字「きりく」は阿弥陀か如意輪観音の種字。
像容から如意輪ではないから、阿弥陀となる。
 
もう一つの理由は脇侍が観音、勢至の菩薩であるから。それぞれの
光背にある種字も「さ」、「さく」となっており、観音、勢至に間違いない。
結果、中尊は阿弥陀となる。
 
大悲願寺の創建は1191年、源頼朝の命により、祈願寺として平山季重が
建立したそうだ。その時以来800年以上一度も火災に遭っていないとの
ことだ。地域の人達に守られて、難を逃れたようだ。こんなに凄いお寺が
あったのかと感心することしきり。
 
いよいよ、ご開帳。正面の厨子が開かれた。最初は遠くから拝観。
間近で拝観できるようになり、並んで順番を待った。左脇侍の観音菩薩が
千手観音となっているのも、珍しい。
右脇侍の勢至菩薩は蓮華を持っていた。頭上の水瓶は勢至菩薩の証。
 
三体とも蓮華座に鎮座していた。平安末期の作とご住職から解説があった
ように、大変穏やかなお顔立ちをしていた。もっとゆっくり眺めたいところ
ながら、次の人が待っており、早々に移動した。
 
次に、本堂に向かった。中は拝観できない。小さな窓から、ご本尊の
大日如来を拝観することができた。智拳印の金剛界大日如来だ。

本堂               本尊の大日如来
 
本堂前で、ご住職と歓談する機会を持てた。我々が杉並区から来た旨、
お伝えした。すると、以前杉並に住まわれていたとのことであり、今でも
講演等で荻窪に来られるようだ。
皆さん、ご縁を感じ、杉並で講演をお聴きしたいことも要望した。最後に、
記念撮影をするため、もう一度「無畏閣」前に移動した。
参加者揃って記念撮影
 
大悲願寺は「お砂踏み霊場」として、四国八十八カ所霊場巡りができる。
今度、白萩の咲く頃にきて、ぜひ巡りたいと言う方もいた。
 
現在のご住職は第36世であり、第15世は伊達政宗の弟とのこと。
政宗が大悲願寺に来られたようだ。また、寺の庭に咲く白萩を所望
されたとのこと。
大悲願寺の歴史に、伊達政宗が出て来るとは驚く。仙台の萩は
大悲願寺から出ているとは、またまた驚く。
 
昼食は、五日市駅近くのお蕎麦屋さんで頂いた。
お蕎麦が大変美味しかった。
 
 
 
 

2016年4月16日土曜日

杉の樹同窓会主催「仏像観方・楽しみ方」講演会開催


本日、杉の樹大学同窓会主催の講演会が開催された。お陰様で、
いつも大勢の方々にご参加頂いている。今回も90名の定員に100名の
ご来場があったとのこと。有難い。
挨拶される橋本会長
 
開始直後の会場

「仏像の観方・楽しみ方」として毎年4月に開催される講演会は、
今年が4年目となる。今回はテーマの一つに、歌人の眼を通した
仏像の観方を取り上げてみた。

奈良を愛した歌人・會津八一は、仏像のどこに着目し、どんな想いを
抱いたのか。仏像拝観する際に、視点が増え、楽しみも広がることを
願ってスポットを当てた。

ご紹介した短歌と仏像の一部を掲載すると・・・
室生寺 十一面観音菩薩立像
「うらわかく ほとけいまして むなだまも ただまもゆらに 
  みちゆかすごと」
(歌意)「この十一面観音はうら若く、胸飾りや腕輪の玉をからから
鳴らしながら道をお歩きになっているようだ」 <注目は胸玉、手玉>
 
観心寺 如意輪観音坐像
「なまめきて ひざにたてたる しろたへの ほとけのひぢは 
  うつつともなし」
(歌意)「なまめかしく膝の上に立てられた白い肘はとても美しく、
まるで現実を越えた夢のようである。」 <注目は膝と肘>

中宮寺 菩薩半跏像
「みほとけの あごとひぢとに あまでらの あさのひかりの 
  ともしきろかも」
(歌意)「み仏の顎と肘あたりにこの尼寺のかすかな朝の光が射し、
なつかしく、こころひかれることだ。」 <注目は顎と肘>

「はつなつの かぜとなりぬと みほとけは をゆびのうれに 
  ほのしらすらし」
(歌意)「初夏の風にばったと、み仏は小指の先でほのかにお感じに
なっているようだ」<注目は小指の先>

興福寺 阿修羅立像
「けふもまた いくたりたちて なげきけむ あじゅらがまゆの 
  あさきひかげに」
(歌意)「今日もまた何人の人がこの像の前で感動したことか。
阿修羅のひそめた眉のわずかな影を見つめながら。」 <注目は眉>
 
最後に、阿修羅の3つの顔についてご紹介した。「日本顔学会」理事の
原島博先生(東大名誉教授)からお聴きした。原島先生が3つ顔の表情
からそれぞれの精神状況を読み取られた。
その後、3つの顔の仏教的意味合いについて、興福寺のお坊さんから
伺ったそうだ。すると見事に一致したと言う。
 
原島先生の鑑識眼の凄さに驚いた。また改めて阿修羅を制作した天平期の
仏師将軍万福の技量に驚いた。
 
これからは、正面のお顔だけでなく、左右のお顔もじっくり拝観されることを
お勧めした。
終了後、杉の樹同窓会役員の皆さんや、仏像好きな仲間たちと歓談し、
楽しいひと時を過ごす。
講演会を企画された方々と、会場にお越しになられた皆さんに感謝!!



2016年4月15日金曜日

西正さんのテーマは「仏教と万葉集」


4月定例会は22名の参加。今回のメインは西正さんの「仏教と万葉集」。
万葉集について造形の深い西さんがどのような話されるか大変興味が沸く。

先ず、朝比奈さんから4月に埼玉県春日部市の圓福寺を参拝した時の様子を
報告された。参拝の目的は、現在取り組んでいる二十五菩薩制作のヒントを
得るため。關信子先生からのご指導もあり、遠路も苦にならず訪問。

當麻曼荼羅の図像は良く見かける。圓福寺の場合は立体當麻曼荼羅として、
仏像が立体的に安置されている。写真で見ただけでも見事だ。また、
二十五菩薩が厨子入りとなっているのも珍しい。毎年4月の第一日曜日が
ご開帳とのこと。ぜひ、機会つくり拝観したい。
〔春日部市 圓福寺の仏像〕
立体當麻曼荼羅像        厨子入り阿弥陀聖衆来迎像
 

いよいよ、西さんのご発表。B5判ノートに手書きで書かれたレジュメ5枚をご準備
頂いた。
ご発表される西さん(一番手前)

(Ⅰ)万葉集とその時代区分、 (Ⅱ)仏教の伝来と興隆、 (Ⅲ)万葉集に詠まれた
仏教を3分類し、順追って話された。

時代区分では、第1期 舒明天皇即位(629年)~壬申の乱(672年)
          第2期 壬申の乱~奈良遷都(710年)
          第3期 奈良遷都~山上憶良没(733年)
          第4期 山上憶良没~天平宝字3年(759年)
の4期に分かれ、130年間に詠まれた歌が集められているとのことだ。

仏教伝来・興隆との関連で見ると、538年の仏教伝来より約90年遅く、
聖武天皇期の東大寺大仏開眼供養会(752年)とほぼ同じ時代までの
期間となる。

西さん曰く「万葉集の時代と仏教興隆の時代はほぼ重なる。それにも
拘らず、万葉集には意外なほど仏教的な色彩が薄い。しかし中身を
よく見ると、日本の和歌に新しい風を吹きこんでいると思われる。」

仏教との関連性が見られるものを4つの視点【①金出土 ②相聞 
③仏教文化 ④僧侶の歌】から紹介された。

①金出土については東大寺の大仏開眼供養を控えて時期に詠まれた
ものであり、正に仏教礼賛と言える。
  『天皇(すめろき)の御代栄えむと東(あずま)なる陸奥山
  (みちのくやま)に金(くがね)花咲く』 (大伴家持 18-4097)

③の仏教文化では鐘を取り上げて、解説された。そしてこの鐘がどの
寺の鐘かについての考察も大変興味深く拝聴した。
  『皆人を寝(ね)よとの鐘は打つなれど君をし思へは寝(い)ねかてぬかも』
  (笠女郎 4-607)
鐘の製造年代と家持の在京期間を突き合わせて考えると、東大寺か薬師寺の
鐘ではないだろうかとのこと。こういう楽しみ方もあると感心した。

仏教文化の中で、インドのストゥーパ(塔、釈迦の墳墓)が中国、朝鮮、日本、
どのような変遷を辿ったかについても話された。鐘については、実物の
ミニチュアをご持参され解説された。
中国鐘  韓国鐘  和鐘
 
今回のお話で、万葉集の読み方に新たな視点が加わったように感じた。
昔を思い出し再び万葉集への関心が高まった方もいるのではないだろうか。
西さんにはぜひとも、第二弾をお願いしたい。

最後に、井戸さんが今月の参拝寺院、あきるの市大悲願寺の概要に
ついて解説された。