2022年4月6日水曜日

東博特別展「空也上人と六波羅蜜寺」観覧記

4月3日(日)久方ぶりに東博(東京国立博物館)を訪れた。10時前後に到着
すると、入口付近には長蛇の列ができていた。なぜこれほど混むのだろうか?
平成館での特別展「ポンペイ」が最終日だったからだと分かった。

本館での「空也上人と六波羅蜜寺」は直ぐに入場できた。10時30分から11時
30分の枠での観覧指定を受付で渡された。会場内には多くの人がいるものの、
観覧に支障は無く、充分堪能できた。

展示件数は17件であり、音声ガイドを聴きながらの1時間観覧にちょうど良い。
また、総合文化展(本館11室)で関連する展示コーナーが設置されおり、二度
楽しむことができた。観覧しての感想を5つの視点で観覧記にまとめた。
(画像は図録と内覧会レポートから)

1.特別展の主役「空也上人立像」(❶)
 空也上人立像は今から10年前、六波羅蜜寺を参詣した際に実物を拝観した。
 口から南無阿弥陀仏の仏が飛び出す造形はユニークであり鮮明に覚えている。

 作者は運慶の四男・康勝(こうしょう)とされる。空也上人没後250年ほど
 の時に制作された。口から出る仏、細身の身体、曲がった腰などは口称念仏
 (くしょうねんぶつ)の遊行僧(ゆぎょうそう)をリアルに造形している。

 康勝は東寺御影堂の国宝・弘法大師坐像の作者でもあり、高僧の精神性まで
 表現する卓越した技量の持ち主と言える。

 空也上人没後1050年を記念しての特別展であり、空也上人は六波羅蜜寺の
 開山(厳密には改名前の前身寺院、西光寺開山)である。

❶空也上人立像

2.東寺講堂像と酷似の持国天像
 空也上人は972年に亡くなり一周忌に著された伝記を「空也誄(くうやるい)」
 と言う。誄(るい)とは死者の生前の功徳を讃えてその死を悲しむこと、また
 その文章を言う。

 空也誄によると天暦5年(951年)、空也上人は寺院創建時に観音像、梵釈像、
 四天王像の7体を造像したとあり、その四天王像が今回展示の像である。ただ
 し、増長天像は、鎌倉時代の後補(❷、❸)。また観音像は現在の本尊である
 秘仏十一面観音像に該当する。

 今回注目したのは、四天王像の中の持国天像。東寺講堂の持国天像に酷似して
 いる。東寺像の模刻ではないかと言われるほど似ている(❸)。両像を結びつ
 ける何かがあるのではないだろうか。
❷寺院創建時の四天王像    ❸酷似した持国天像

3.伝説の人物彫像3体(❹、❺、❻)
 六波羅蜜寺には「伝〇〇〇像」と呼ばれる有名人物の像が3体ある。即ち、
 平清盛像、運慶像、湛慶像である。平氏の邸宅があったのが六波羅の地で
 あり、清盛像が造像されるのは理解できる。しかし、源氏の時代に入って
 なぜ清盛像を造る必要があったのだろうか?鎮魂のためだろうか。清盛像
 には謎が多い。
 
 運慶、湛慶の慶派仏師は平家滅亡後、源氏の時代になって台頭して来た。
 慶派仏師は六波羅蜜寺の造像を多く手掛けており、運慶像、湛慶像が制作
 されても不思議ではない。運慶像は、子の湛慶が制作、湛慶像は湛慶の子
 康円が制作した可能性が高いとのことだ。(❿の系図参照)
❹伝平清盛坐像      ❺伝運慶・湛慶坐像

4.閻魔王と地蔵菩薩
 六波羅の地は葬送の地、鳥辺野(とりべの)の入り口にあたり「あの世」と
 「この世」の境界とみなされていた。死後の世界を身近に感じ、閻魔王を始
 めとする十王思想が広がるのは自然の成り行きと言える。

 冥界の裁判官である閻魔王に対し、救済者としての地蔵菩薩に救いを求めた。
 六波羅蜜寺に閻魔王像や地蔵菩薩像が安置されているのは、土地柄も大きく
 影響していると思われる(❻、❼、❽)。

 定朝作の可能性が高い地蔵菩薩立像(❼)と運慶作の地蔵菩薩坐像(❽)を
 比較すると、制作時代の違いが良く分かる。側面から胸の厚みを眺めると、
 一目瞭然。定朝作が貴族好みの華奢な感じなのに対し、運慶作は武士好みの
 ボリューム感があった。
❻閻魔王坐像

❼地蔵菩薩立像       ❽地蔵菩薩坐像

5.六波羅蜜寺の仏像と慶派仏師
 関連展示の弘法大師坐像(❾)は快慶の弟子・長快作である。この像を含め、
 今回展示の像で、作者が確定しているもの、及び作者の可能性が高いものを
 表記してみた(❿)。

 六波羅蜜寺には慶派仏師の像が多いことが分かる。また、六波羅蜜寺と東寺
 もしくは空海との繋がりを感じさせるものもある。
❾弘法大師坐像      ❿出展作品と仏師

規模的にちょうど良い特別展であり、体力的にも無理なく楽しめる内容だった。