2020年4月29日水曜日

法隆寺は国宝文化財の宝庫⑦<百済観音堂 百済観音像>


Ⅰ.百済観音の来歴

(A)1000年間記録なく、初記録は「虚空蔵菩薩」
 百済観音像(❶)は謎が多い。史料に初めて登場するのが、
 江戸時代、1698年(元禄11年)とのこと。百済観音の
 造立が7世紀後半と推定され、1000年以上も記録が
 無かったことになる。
❶百済観音像

 元禄の記録では「虚空蔵菩薩 百済国より渡来、但し天竺の
 像なり」と記されている。江戸時代は、百済から渡来した
 インドの虚空蔵菩薩像となっている。どんな根拠があって
 の記録だろうか?

(B)「観世音菩薩」の名称で国宝指定
 1897年(明治30年)に日本の文化財保護に関する法律、
 古社寺保存法が制定され、「観世音菩薩立像」の名称で、
 国宝に指定される。

 江戸時代は、虚空蔵菩薩と呼ばれていた像が観世音菩薩の
 名前になった。この頃から百済観音と呼ばれたのだろうか?

(C)観音の標識、動かぬ証拠となる宝冠を発見
 1911年(明治44年)、法隆寺で金銅製宝冠(❷)が土蔵
 から発見された。宝冠の話を聞くと、童話「シンデレラ」の
 ガラスの靴を連想する。宝冠がピッタリはまったことで、
 持ち主が確定したストーリーは同じだ。
❷百済観音 宝冠の化仏

(D)百済観音は、誰が、何のために造立したか?
 東京国立博物館研究員の三田 覚之(みた かくゆき)氏の解説
 が興味深い。テレビ番組の「新 美の巨人たち」や月刊誌の 
 「時空旅人」でコメントされていた(❸、❹)。

 結論は、片岡御祖命(かたおかのみおやのみこと)と言う
 聖徳太子の娘、山背大兄王(やましろのおおえのおう)の妹
 が百済観音造立の発願者ではないだろうかと言う解説だ。
 理由は以下の通り。

 法隆寺献納物の灌頂幡は、山背大兄王の追善供養のために
 片岡御祖命が奉納したことが記録にある。百済観音の腕釧
 (ブレスレット)のデザインや寸法が灌頂幡と同じであり、
 同一人が奉納したと考えられる。

 百済観音も灌頂幡と共に、山背大兄王の冥福を祈って、妹
 の片岡御祖命が発願した可能性が高いとのことだ。

 宝冠で、観音を裏付け、腕釧で造立発願者が特定できた。
 装身具が歴史的事実を証明する貴重な物証となっている。
❸テレビ東京「新 美の巨人たち」  ❹時空旅人「法隆寺」
 

Ⅱ.百済観音の魅力・特徴
(E)和辻、亀井が百済観音から受けた衝撃 
 哲学者の和辻哲郎(1889~1960)は「古寺巡礼」中で、
 抽象的な「天」が具体的な「仏」に変化すると表している。

 文芸評論家の亀井勝一郎(1907~1966)は、対面した時の
 感動を「大地から燃えあがった永遠の炎のようであった」
 と表現している。

 和辻は「天」、亀井は「大地」と言う語を用いている。共に
 百済観音が宇宙の真理や恵みを具現しており、この世のもの
 とは思えない程の存在と感じたのではないだろうか。

(F)百済観音は、痩身、八頭身の仏さま
 像高が2mを越える長身、八頭身の体形は人間離れをして
 いる。法隆寺所蔵の飛鳥仏3躯の比較をしてみた(❺、❻)。

 聖徳太子等身大と言われる「釈迦如来像」や「救世観音像」
 に比し、百済観音は、極めて長身であり、どなたかの等身と
 は思われない。イメージでの造形ではないだろうか。

 釈迦如来や救世観音が止利仏師や止利派によって製作され、
 顔の表情が良く似ている。百済観音だけ、雰囲気が違う(❻)。

 東京国立博物館の三田氏によると、蘇我氏が滅び、止利派
 も一掃され、別の仏師集団が造立したのではないかと解説
 されていた。

 救世観音が、木造(クス)・金箔押しで金銅仏のような、
 くっきりした印象を与える。一方、百済観音は木造(クス)
 に乾漆を併用したためか、表情が茫洋としている。

 木造乾漆併用の技法は、東寺講堂の立体曼荼羅の諸尊像
 など平安初期に見られる技法だ。飛鳥時代に、その技法が
 あったとは驚く。
❺飛鳥仏3躯の比較     ❻同左3躯のご尊顔

百済観音は1997年9月~10月、パリのルーブル美術館で
海外初公開されたのに続き、11月~12月、東京国立博物館
で特別展示された。この1997年は古社寺保存法制定されて、
文化財指定制度100周年に当たり、公開となったもの。

23年ぶりの特別展は、開会の準備が整っていながら、コロナ
により中止となってしまった。大変残念だ。一日も早い、終息
を願って止まない。



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