2022年1月20日木曜日

東大寺の歴史と寺宝(Ⅰ)

『古寺・名刹参詣の自分流楽しみ方』をまとめ始めて、今回が4回目になる。
取り上げた古刹は「飛鳥寺・元興寺」、「薬師寺」。そして今回が「東大寺」
となる。『東大寺の歴史と寺宝』は2回に分け、第一回は歴史と華厳の教えを
中心にまとめ、第二回で寺宝の詳細をまとめることにしたい。

 1.東大寺の寺名変遷と文化財

  東大寺の始まりは聖武天皇が皇太子基親王(もといしんのう)の菩提を
  弔うために金鐘山房(きんしょうさんぼう)を造営したことによる。
  寺名も変化し、金鐘寺、金光明寺(こんこうみょうじ)、東大寺となっ
  て行った。東大寺は通称名で、「金光明四天王護国之寺」が正式名との
  ことだ(❶)。

  文化財の寺宝は建造物8棟、美術工芸品のうち仏像彫刻14件24躯が国宝
  に指定されている。国宝仏像の安置されている堂塔に軀数を表示(❷)
  した。

❶東大寺の概要と文化財   ❷伽藍と国宝仏像安置数

2.聖武天皇と藤原氏との関係
  藤原氏は天皇家と姻戚関係を築き、政権掌握を強固にした。聖武天皇の母
  ・宮子、皇后・光明子は、いずれも藤原不比等の娘(宮子、光明子は異母
  姉妹)であり、藤原氏が台頭する礎となった。聖武天皇が皇族と新興勢力
  の藤原氏との抗争に心を痛めたことは想像に難くない(❸)。
❸藤原氏と天皇家の関係

3.東大寺の歴史
  東大寺の歴史を3つの視点で整理した。Ⅰ)史実(出来事)、Ⅱ)堂塔
  Ⅲ)人物の3点である。
  
 (Ⅰ)略年表に見る史実(出来事)
   注目したことは、①聖武天皇が大仏造立を発願するに至る経緯となぜ
   何度も遷都したのか。大仏造立後は、戦火による焼失と復興の歴史に
   スポットを当てた。

   聖武天皇は即位後、災難が続く。基親王の死去、長屋王の変、天然痘の
   流行による政権中枢(藤原四兄弟)の死去、藤原広嗣の乱と立て続けの
   受難である(❹)。

   当時、災難は為政者の徳が足りないから起こると考えられていた。聖武
   天皇はどれほど悩んだことだろうか。この難局を乗り切るために、仏の
   力に頼ろうとしたことは想像できる。河内の智識寺の廬舎那仏を礼拝し、
   大仏造立を発願したとされる(❹)。

   それでは、聖武天皇が何度も遷都を繰り返したのはなぜだろうか(❺)。
   聖武天皇が心神耗弱となり彷徨したのではないかとも言われた。しかし、
   最近の研究では、唐の制度に倣い複都制(機能別の都)を念頭に、行動
   したのではないかとも言われる。

   外交(難波宮)、物流(恭仁京)、仏の都(紫香楽宮)を拠点に複都制
   の構想があったのではないかと言う研究だ。そうであるなら、精神的に
   タフな天皇像となり、イメージを一新する。いずれにしても、大仏造立
   の地を求めていたことだけは確かのように思われる。
❹略年表(奈良時代)     ❺聖武天皇の遷都
   
   平安期以降の大きな出来事と言えば、1180年の平重衡、南都焼き討ちと、
   1567年の三好三人衆と松永久秀の合戦に被災である(❻)。大半の堂塔
   を焼失し、東大寺存亡の危機となった。
❻略年表(平安~江戸)

 (Ⅱ)堂塔の建立と再建
   主要伽藍で創建当初の建造物法華堂だけ(❼)。転害門も当初建造物。
   二度の被災を免れた二月堂は修二会の最中に失火し、一度焼失している。
   幸いにも直ぐに再建された。

   南大門は、平重衡の南都焼き討ち後に再建され、三好三人衆と松永久秀の
   合戦では運よく被災を免れた。仁王像と共に鎌倉時代の雄姿を今日に伝え
   る貴重な文化財だ。大仏殿、中門、戒壇堂はいずれも江戸時代の再建。
❼主要伽藍の略年表

 (Ⅲ)東大寺創建・造営・復興に携わった人々
    (❾、❿、⓫掲載の彫像はすべて東大寺所蔵の像)
   
   東大寺創建等の歴史を人物にスポットを当て、整理してみると、最初に
   登場するのが、「四聖御影(ししょうのみえ)」(❽)に描かれた4人
   である。即ち、発願の聖武天皇、開眼導師の菩提僊那(ぼだいせんな)、
   勧進の行基、開山の良弁(ろうべん)の4人。

   次いで、東大寺所蔵の彫像で見て行くと、開山の良弁は「良弁僧正坐像」
   として国宝彫像になっている(❾)。鑑真和上(がんじんわじょう)は
   戒壇院の創建、実忠和尚(じっちゅうかしょう)は不退の行法、修二会の
   創始者として有名である。
❽東大寺創建の4人      ❾創建・造営の僧

   東大寺は、空海が密教を請来する以前から、雑密(ぞうみつ)が伝わって
   いた。法華堂の不空羂索観音像は明らかに密教の仏像である。遣唐使僧の
   玄昉(橘諸兄のブレーン)が伝えたと言われている。

   平安時代になって、桓武天皇の信任厚い最澄が奈良仏教と対立するのに
   対し、空海は奈良仏教を包摂し、東大寺境内に密教寺院を創建している。
   大仏殿を正面にし、参道の左手に「真言院」(❷の地図参照)として今も
   残っている。そこに祀られているのが「弘法大師坐像」(❿)である。
   東大寺の別当にもなったと言うから繋がりの強さを感じる。

   更に、空海の孫弟子であり、醍醐寺開山の聖宝(しょうぼう)(❿)は
   「三論」と「真言」を学ぶ東南院を創設した。これも空海からの法脈と
   言える。今は東大寺寺務所(旧東南院)(❷地図参照)となっている。

   復興の最大の功労者と言えば、重源と公慶の二人(⓫)だ。二人の彫像は
   それぞれ「俊乗堂」「公慶堂」に祀られている。「重源上人坐像」は国宝
   「公慶上人坐像」は重文に指定されている。

   重源が醍醐寺出身の真言僧であり、ここでも東大寺と真言宗との結びつき
   がある。重源の後の二代目大勧進職は栄西、三代目が行勇と鎌倉の寺院と
   繋がりのある僧が務めている。源頼朝が東大寺復興を支援したことと関連
   があるのかもしれない。
❿創建・造営の僧Ⅱ    ⓫伽藍復興の勧進僧

4.三千大千世界の蓮華蔵世界と鎮護国家(仏国土)

  会津八一の歌に『みほとけ の うてな の はす の かがよひ に
  うかぶ 三千だいせんせかい』という大仏讃歌がある。歌意は「大仏の
  お座りになっている台座にある蓮華の上に描かれて、その輝きの中に
  浮かびあがる三千大千世界であることよ」となる(⓬)。

 (Ⅰ)三千大千世界とは
   三千大千世界のことを蓮華蔵世界と言う。蓮の花(華)の中に海が広がり
   海の中に島がある。その島に山(須弥山)が聳える。須弥山の上空には、
   二十五層の天界がある。この蓮の花の世界を「小世界」と言う(⓭)。

   「小世界」が1000個集まって「小千世界」となり、更に「小千世界」が
   1000個集まって「中千世界」、「中千世界」が1000個で「大千世界」と
   なる。即ち、大千世界とは1000×1000×1000=10億の小世界となる。

   三千大千世界の「三千」とは「千が3つからなる」、「千の3乗」の意味
   で、大千世界が3000あるという意味ではない。三千大千世界と大千世界
   は同じものだ。

 (Ⅱ)蓮華蔵世界
   蓮華蔵世界の教主が毘盧遮那仏であり、お釈迦さまは毘盧遮那仏から派遣
   され、小世界の人々を救済するために現れたとされる(⓭)。
  
⓬大仏台座の線刻      ⓭蓮華蔵世界

(Ⅲ)華厳経の教え
   「一即一切 一切即一(いっそくいっさい いっさいそくいつ)」とは、
   「個が全体の代表であり、全体は個の集合体である」と理解した(⓮)。
   
   例えていえば、個々の人間は、人類700万年の歴史を紡いだDNAを持つ、
   人類の代表であり、人類は顔も考えも違う個性豊かな個々人の集合体で
   ある。個を普遍性(共通性)の視点捉え、全体は多様性を包含する奥深い
   眼差しを感じる。
  
   良く似た言葉に「One for all   all for one(一人は万人のために 万人は
   一人のために)」がある。分断と自己責任論、そして自助を躊躇いも無く
   口にする為政者がいる今日、「一即一切、一切即一」は砂漠にオアシスの
   ような言葉だ。

   「華厳」とは「雑華厳飾(ざっけごんじき)」「雑華厳浄(ざっけごん
   じょう)」の略であり、「個性ある花が一緒に咲き誇れる世界」を現し
   ている(⓮)。

 (Ⅳ)廬舎那仏光背の化仏は?   
   蓮華蔵世界の教主が廬舎那仏であることは、先に触れた。東大寺大仏の
   光背にある化仏は何だろうか? これは釈迦如来だ。廬舎那仏は釈迦を
   生む仏と言われている。廬舎那仏から生まれた釈迦が光背に掛っている
   状態と言える(⓯)。釈迦如来が小世界に現れる。
⓮華厳経の教え       ⓯大仏の化仏

 (Ⅴ)蓮華蔵世界の仏国土
   741年に国分寺、国分尼寺の詔が発せられた(❹)。総国分寺としての
   東大寺、総国分尼寺としての法華寺を中心に据え、蓮華蔵世界の仏国土
   を創造しようとした。

   上総国分僧寺(千葉県)や肥前国分僧寺(佐賀県)についての説明文
   (⓰)に記載の通り、国分寺では釈迦如来、国分尼寺では阿弥陀如来
   を本尊としたとある。

   東大寺に毘盧遮那仏、全国68か国の国分寺には釈迦如来が安置された
   ことになる(⓱)。正に蓮華蔵世界の仏国土、鎮護国家の出現となった。
⓰国分寺に釈迦如来安置     ⓱全国の国分寺数

今日、1月20日は「大寒」。日一日と暖かくなることと、一刻も早いコロナの
終息を待ち望んでいる。

≪ 続く ≫




2021年12月18日土曜日

薬師寺の歴史と寺宝

古寺・名刹を参詣する際の事前準備に基礎知識となるものをまとめていた。
このことにより、実際の参詣がより内容の濃いものとなったように思う。
「古寺名刹の歴史と寺宝」シリーズ第二弾は薬師寺を取り上げた。

度を過ぎた情報収集は、素直な感動を阻害することにもなりかねないため
ほどほどが良いこともあり、注意を要する。

1.薬師寺の概要と略年表

  薬師寺の創建は、天武天皇が皇后・鸕野讚良(うののさらら、後の持統
  天皇)の病気平癒を発願して建立したお寺である。平城京遷都と共に、
  現在の地に移転された(❶)。

  薬師寺の歴史の中で注目したのは、「発願、堂塔造立」の歴史、次いで
  明治・大正の「神仏分離・廃仏毀釈から文化財保護」(❷)、そして
  昭和・平成の「白鳳伽藍復興」(❻)の3点である。

  薬師寺の造立は天武持統文武元明元正聖武と歴代天皇に引き
  継がれて行ったことが略年表(❷)から読み取れる。

  また、神仏分離や廃仏毀釈と言った、天下の愚策や妄動があった中、
  フェノロサ岡倉天心等のお蔭で貴重な国家的遺産が残された。

❶薬師寺の歴史と寺宝    ❷薬師寺略年表(一部)

2.国宝建造物
  国宝となっている建造物は2棟、「東塔」と「東院堂」である(❸)。
  東院堂建立の吉備内親王は、文武・元正天皇の姉妹であり、長屋王の后
  となった人物である。藤原氏との政争に巻き込まれ非業の死を遂げる。
  
  創建当時唯一の建造物が東塔である。建築美が「凍れる音楽」と称せら
  れる東塔が残っていたからこそ、白鳳伽藍の復興計画が可能となったと
  言える。
❸薬師寺の国宝建造物

3.白鳳伽藍復興の功労者
  明治期の薬師寺伽藍は廃仏毀釈の影響により荒れ果てていた(❹)。創建
  当初の伽藍復興は薬師寺積年の願いであった。そのような中、登場したの
  が、高田好胤管長だ。

  高田管長は金堂の復興資金10億円を集めるのに多くの人に働きかける勧進
  を始めた。さながら、東大寺復興を果たした鎌倉時代の重源、江戸時代の
  公慶のようだ。ところが、「タレント坊主」などと揶揄されることもあり、
  資金調達は難航した。

  人は誰でも心にオアシス(仏心 ほとけごころ)持っている。「写経に
  よって、心のオアシスを掘り当てませんか」の訴えが人々の琴線に触れ、
  写経納経が急増した。写経勧進が100万人に到達し、目標達成となった。
  (納経料1000円×100万人=10億円)

  また、高田管長が選んだ伽藍再建の宮大工は「鬼」と称された日本一の
  宮大工、西岡常一棟梁だった(❺)。最強のコンビがタッグを組むことで
  復興計画が進められた。宮大工 西岡常一の遺言『鬼に訊け』という記録
  映画(❺)は、一見の価値がある。

  最近、NHKプロジェクトX挑戦者たちという番組で『薬師寺 幻の金堂 
  ゼロからの挑戦』として紹介(再放送)され、懐かしく視聴した。 
❹明治期の薬師寺伽藍    ❺白鳳伽藍復興の功労者

4.白鳳伽藍復興の推移
  白鳳伽藍の復興は、金堂に始まり、西塔、中門、大講堂、食堂と進んで
  いった。間に、玄奘三蔵院と言う新たな伽藍も建立されて行った(❻❼)。
  国宝東塔の大修理も2020年に完了し、再び優美な姿を目にすることが
  できるようになった。
❻白鳳伽藍復興の落慶   ❼復興した白鳳建造物

5.堂塔のご本尊は名品揃い
  白鳳伽藍に安置された仏像と言えば、金堂の薬師三尊像東院堂の聖観音
  像。金銅仏の中で美しさで1、2を競い合う尊像と言える(❽、❾)。

  また、大講堂では、弥勒如来を中尊に、両脇に無著像世親像が配置され
  ている(❿)。同じような尊像配置は、興福寺北円堂(⓫)で観ることが
  できる。これは、法相宗寺院ならではの配置のようだ。法相教学の系譜
  ついて、次にまとめた。
❽金堂の薬師三尊像    ❾東院堂の聖観音像

❿大講堂の弥勒像と脇侍像  ⓫興福寺の弥勒像と脇侍像

6.法相教学の系譜と唯識思想
  仏教はインドで生まれ、中国へ渡り、日本へもたらされた。法相宗の基と
  なる法相教学は「弥勒」の瑜伽唯識説無著・世親の兄弟が大成させた。
  この弥勒は、未来仏の弥勒とは別でありながら名前が同じことから同一視
  されるようになったとのことだ。

  次に、玄奘三蔵は経典を求めてインドを旅し、経典を中国へ持ち帰った。
  持ち帰った経典を漢訳し、法相教学を体系づけたのが玄奘三蔵と弟子の
  慈恩大師である。

  そして、遣唐使として唐へ渡り、玄奘三蔵に師事し、法相教学を学んだ
  のが道昭となる(⓬)。これが、法相教学の系譜と言える。この道昭は
  略年表(❷)698年「大僧都に任ぜられる」とある。日本における
  法相宗の開祖と言われる。

  法相宗の唯識思想とは、「見る人によりそれぞれの世界であり、客観的
  に同一の世界ではない」と言う事だ。見方が変われば世界も変わるとも
  言える。

  薬師寺、興福寺の法相宗寺院で弥勒如来、無著・世親、玄奘三蔵、慈恩
  大師が祀られるのは法相教学の系譜にあるからである。
⓬法相教学の系譜と唯識思想

7.その他所蔵の国宝文化財(図像や神像)
  国宝で色彩も鮮やかな図像に「吉祥天像」と「慈恩大師像」がある。共に
  法要の際に、堂内に安置されるようだ。吉祥天像は正月に行う「吉祥悔過
  法要」で金堂薬師三尊像の御宝前に祀られる。

  慈恩大師像は、「慈恩会」(慈恩大師の忌日11月13日)に大講堂に掲げら
  れるとのことだ。

  休ヶ岡八幡宮の八幡三神像は国宝の小像である。石清水八幡宮が創建され
  て以来、寺院の鎮守社、守護神として八幡神が勧請された。神仏習合が
  進んだ結果である。神像の国宝は全国6件13軀しか指定されていない。
  その中の1件3躯が本像であり、大変貴重な神像と言える。
⓭吉祥天像、慈恩大師像   ⓮休ヶ岡八幡宮の神像

8.玄奘三蔵院伽藍の仏像と壁画
  玄奘三蔵は法相宗の鼻祖に当たり、遺徳を顕彰するために玄奘三蔵院伽藍
  は建立された。玄奘塔には玄奘の彫像(⓯)とともに、ご遺骨も祀られて
  いる。ご遺骨は次のような経緯で薬師寺に安置されるようになったそうだ。

  昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵の
  ご頂骨(頭部の遺骨)を発見し、その一部が全日本仏教会に分骨され、
  更に、玄奘三蔵所縁の寺院として薬師寺に分骨されたとのことだ。正に
  仏舎利のようにも思える有難いお骨だ。

  また、玄奘三蔵院には平山郁夫画伯の大塔西域壁画7場面13枚全長49mの
  大作が掲げられている。壮観であり、画伯の仏教への熱い思いを感じさせ
  る。
⓯玄奘三蔵院伽藍の仏像・壁画

2021年11月20日土曜日

飛鳥寺・元興寺の歴史と寺宝

本格的な伽藍を備えた日本最初の仏教寺院が「法興寺」と言われる。
蘇我馬子が蘇我氏の氏寺として建立したものだ。その法興寺は時代が
下って、「飛鳥寺」と「元興寺」となる。その歴史と寺宝をまとめた。
なお、飛鳥寺の寺名は通称名であって正式名称ではないようだ。

1.飛鳥寺・元興寺の歴史的変遷(❶❷)
 (A)法興寺は平城京遷都で移転寺院と残留寺院に分かれる
   法興寺の寺名は「仏法興隆」から「法」と「興」の2字を取った
   と言う。「法」と「隆」の2字を取ったのが「法隆寺」となる。

   遷都の際、移転と残留に分かれ、移転寺院が「元興寺」となり、
   残留寺院が「本元興寺(もとがんごうじ)」と呼ばれた。
   現在の宗派、ご本尊についても記した。元興寺は3つのエリアに
   分かれている(❶)。

   仏教公伝後、「法興寺」造立から平城京への移転(718年)まで
   の推移は❷の年表の通り。関連する年号に〇印を付した。
   注目するのは、法興寺の完成が596年、本尊の丈六釈迦如来像完成
   が606年。その間、本尊はどうなっていたのだろうか?

❶飛鳥寺・元興寺の歴史   ❷古代寺院史の略年表

 (B)蘇我氏と大王家の系図、丁未の乱(ていびのらん)
   法興寺を創建した蘇我馬子とは、どのような人物であったか。蘇我氏
   と大王家との関係を示す系図(❸)の通り、蘇我氏は大王家と極めて
   強い繋がりがある。蘇我馬子は聖徳太子の大叔父であり、後に義父
   なる。
   
   丁未の乱によって、宿敵・物部守屋を討ち破り、政権における不動の
   地位を確立した。そして、日本最初の寺院、法興寺の造営を始める。

   先日放映されたNHKドラマ『聖徳太子』では、太子は仏法を馬子から
   学び、丁未の乱では、馬子側に付き参戦する(❹)。十七条憲法成立
   の過程も描かれており、大変興味深い。「和を以て貴しとなす」が
   新羅との戦争回避の指針となっていたとは新鮮な驚きだ。

   また、太子は丁未の乱参戦に際し勝利の暁に四天王寺を建立すること
   を誓願したと言う。この時、太子は13~14歳であり、何と早熟のこと
   かと驚く。
❸蘇我氏と大王家の系図  ❹蘇我氏と物部氏の争い

 (C)古代寺院の伽藍配置変遷
   法興寺の遺構は「飛鳥寺跡」として国指定史跡となっている。昭和31、
   32両年度に奈良国立文化財研究所の発掘調査で一塔三金堂が確認され、
   昭和41年4月21に文化庁から指定を受けた。この時「法興寺跡」では
   なく、広く親しまれ、典拠もある寺名とし「飛鳥寺跡」での登録とし
   たそうだ(❺)。

   伽藍配置は寺院の名を冠した「〇〇寺式」と言われる伽藍配置でその
   変化を確認できる。伽藍の中心が塔から金堂へ移って行く段階を表し
   ている(❻)。飛鳥寺式の配置は百済には見られず、高句麗で発見さ
   れたとのことだ。いかにも派手な構えに思える。
❺法興寺の伽藍配置      ❻伽藍配置の変遷
 (D)「ならまち」と現在の元興寺境内
   「ならまち」地域が都市として発展したのは、平城京遷都(710年)に
   多くの社寺が置かれたことに始まり、中世以降、元興寺旧境内に様々な
   産業が興り、町が形成されていったそうだ。

   「ならまち」と元興寺の状況は❼の通り。元興寺旧境内がいかに広大で
   あったかも想像できる。現在、元興寺は3つのエリアに分かれている。
   即ち、極楽坊塔跡小塔院跡。宗派も真言律宗華厳宗の二つに分か
   れる。(❶の2)
❼ならまちと元興寺

飛鳥寺跡は遺構として地下に埋まり、元興寺旧境内は「ならまち」として
庶民の生活の場となっている。時代の流れの中でいかに変化や対応をして
行ったかを如実に物語っている。次は寺宝についてまとめたい。

2.飛鳥寺・元興寺の寺宝
  (A)飛鳥寺
    日本最古の仏像こそ、飛鳥寺のご本尊・釈迦如来坐像。飛鳥大仏
    の方が馴染み深い。現在の金堂は、法興寺の中金堂と重なる位置
    に建つ。従って、飛鳥大仏は造立以来ずっと同じ場所に鎮座され
    ている。造立が606年であるから今年で1415歳になられる(❽)。

    飛鳥寺創建には聖徳太子の存在が大きい。聖徳太子孝養像は全国
    の寺院で良く見かけるものの、飛鳥寺の像は、特に印象深く感じ
    る像と言える(❽)。
❽飛鳥寺の仏像

 (B)元興寺(極楽坊)<真言律宗元興寺>の宝物
   元興寺(極楽坊)では、国宝の本堂と禅室が目を引く。いずれも
   鎌倉時代の建築であり、柱や瓦などは飛鳥~奈良時代のものが、
   残っている(❾)。

   極楽坊ならではの宝物は五重小塔(国宝)と智光曼荼羅(重文)
   と思われる(❿)。五重小塔は奈良時代に造られたものであり、
   保存が良く、奈良時代の建築を知るうえで貴重な資料となって
   いる。

   智光曼荼羅は奈良時代の元興寺僧・智光(ちこう)が感得した
   極楽浄土を僧房の画工に描かせたものである。そのことから、
   極楽坊の呼称が生れたとのことだ。浄土信仰の寺となった所以
   である。

   平安時代に空海が請来したものが曼荼羅であり、智光曼荼羅の
   名称は、後年に付けられたものではないか? 「浄土変相図
   と呼ぶのが正しいようだ。 
❾国宝建造物 本堂と禅室   ❿五重小塔と智光曼荼羅

   元興寺は、庶民信仰の寺として、「浄土信仰」以外にも「地蔵信仰」
   「(聖徳)太子信仰」「(弘法)大師信仰」が続いている。そのため
   名作の聖徳太子像(⓫)や弘法大師像(⓬)がある。聖徳太子の化身
   とされる如意輪観音像(⓬)も素晴らしい。
⓫聖徳太子2歳像、16歳像   ⓬如意輪観音像、弘法大師像

 (C)元興寺(塔跡)<華厳宗元興寺>の寺宝
   元興寺の伽藍は、中門を挟んで東に大塔西に小塔があった。現在は
   史跡として塔跡、小塔院跡となっている。塔跡は華厳宗元興寺として
   貴重な宝物を所蔵している(⓭)。
  
   奈良国立博物館でお目に掛る国宝の薬師如来像は、元興寺所蔵の像が
   寄託されている。国宝の薬師如来像は、全国で13軀あり、その中の
   1躯である。また、本尊の十一面観音は頂上仏面に特徴があり、魅力
   的な像だ。
⓭元興寺(塔跡)の案内板  ⓮薬師如来像、十一面観音像

 (D)元興寺(小塔院跡)<真言律宗元興寺>
   東の大塔に対し、西の小塔であり、こちらの小塔には五重小塔(❿)
   が安置されていたようだ(⓯)。小塔院跡と言われる史跡であり、今
   は、小さなお堂があるだけとなっている(⓰)。
⓯元興寺(小塔院跡)案内板  ⓰元興寺(小塔院跡)の境内

以上、日本最初寺院・法興寺(飛鳥寺)から元興寺への歴史と宝物を
ざっくりとまとめてみた。参詣の際に、ご参考となることを願う。




2021年10月20日水曜日

古寺名刹参詣の自分流楽しみ方

毎年、数回は奈良、京都の古寺名刹を参詣している。コロナのために、
昨年から参詣が叶わず、寂しい思いをしている。古寺の境内や堂塔に
身を置くと、立ちどころに創建当時のいにしえにタイムスリップする。
また、ご本尊や諸尊像とのご対面はこころが浄化されるようで、至福の
時間となる。

古寺名刹参詣は1回で3度楽しめると思っている。最初に計画と下調べ
の楽しみ、次に本番、お目当ての寺院堂塔を巡り、鎮座されるご尊像を
拝観する楽しみであり、これが一番であることは言うまでもない。

3度目は帰宅後、写真や絵葉書から探訪記を記録することの楽しみ。
(探訪記はパワーポイントやブログにすることで次の楽しみにも繋がる。)
修学旅行の大人版ではないだろうか?

参詣の下調べとして寺院創建の縁起や歴史を知る。いつ頃誰が何の
ために創建したお寺かを知ると、創建時に思いを馳せることができる。

奈良・京都の代表的な古刹について、創建縁起などをまとめたものを
❶図に掲載。時代区分毎、創建年順に、開基者・発願者、創建目的を
簡潔に記した。また、ご本尊が文化財指定の尊像かも追記した。

❶代表的な古刹の縁起
漫然として参詣するより、該当寺院のアウトラインを把握した上で、
訪れると、中身の濃い拝観ができるようになる。実際には、もっと
詳しく歴史的な変遷や、所蔵仏像の来歴などを調べる。個別寺院の
詳細は、次回以降にご紹介させて頂く。

更に、仏教の変遷を時系列的に掴んでおくことで、該当寺院の歴史的
な位置づけも把握でき、参考となる。変遷を一覧表にまとめたものが
❷図となる。これは高校生向けのテキストから抜粋・編集した。
❷仏教の変遷

興味のあることを調べ、学び、まとめることは何ものにも代えがたい
楽しみであり、同好の士と分かち合えることは更なる喜びとなる。


2021年9月11日土曜日

<神仏習合❽> 曼荼羅と霊場

1.宮曼荼羅(みやまんだら)

神社や寺院の風景とそこに祀られている神仏を斜め上から描いた絵画
がある。「宮曼荼羅」(①)と呼ばれている。①左から「山王宮曼荼羅」
「春日宮曼荼羅」、「熊野曼荼羅」。宮曼荼羅の絵画制作は平安時代
始まり、遺品は鎌倉時代以降のものが多いようだ。

絵画には風景に合わせ神仏が描かれている。本地垂迹(ほんじすいじゃく)
と言う思想により、本地仏が垂迹神となって、この世に現れたとされた。
山王宮曼荼羅の上部には、最上段に本地の仏・菩薩を、その下に垂迹の
神々を横一列に描く。正に神仏習合の世界となっている。(②)

①宮曼荼羅(3幅)    ②山王宮曼荼羅 上部

2.参詣曼荼羅(さんけいまんだら)

「宮曼荼羅」が更に大衆化したものに「参詣曼荼羅」と呼ばれる絵画がある。
「那智参詣曼荼羅」「伊勢参詣曼荼羅」「富士参詣曼荼羅」「立山曼荼羅」
「高野山参詣曼荼羅」などがある。(③、④)

日本各地の有名な神社や寺院、あるいは霊場などへの参詣を呼びかけ、寄付
を募る
ために作成されたそうだ。いわば参詣案内ようなものだ。
時期的には、16世紀から17世紀、中世末期から近世の初め頃の時代と言う。

ここまで来ると、寺社への参詣もイベント化し、一般大衆の参加も多くなる
のは必然である。「熊野比丘尼(くまのびくに)」「御師(おし、おんし)」
「高野聖(こうやひじり)」と呼ばれる人達が参詣者を募るのに一役買った。
参詣曼荼羅の絵画を使って、絵解き(えとき)をし勧誘した。

③参詣曼荼羅(那智・伊勢)  ④那智参詣曼荼羅 中央部分

「宮曼荼羅」「参詣曼荼羅」と日本独自の変遷を遂げて来た。空海が唐から
請来した曼荼羅とは全く異なるものになった。そこで、次に、空海請来の
曼荼羅について触れておきたい。

3.空海請来の曼荼羅「両界曼荼羅」

空海が唐から請来した曼荼羅は密教法具であり、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅
の両界曼荼羅からできている。即ち、世界の成り立ちを示した胎蔵界と悟りへ
の道筋を示した金剛界の二つである。(⑤)

私のイメージする胎蔵界曼荼羅は「万物が共生し、山懐に抱かれたような感覚
になる世界」であり、金剛界曼荼羅は「閉ざされた門をこじ開けながら、前進
して行く様を表現している」ように感じられる。胎蔵界が慈悲なら、金剛界は
智慧を表している。個人的には胎蔵界曼荼羅に惹かれる。

曼荼羅の世界と言った場合は胎蔵界曼荼羅のことではないかと思える。万物
を受け入れる姿勢こそ曼荼羅に相応しい。神仏習合も当然の帰結と言える。

⑤両界曼荼羅

4.神仏習合まとめ

空海は高野山を開くにあたり、地主神である狩場明神(かりばみょうじん)
と丹生明神(にうみょうじん)祀った。以来、真言宗ではこの二柱の神を
尊崇し続けているとのことである。

哲学者の梅原猛氏は、あるテレビ番組の解説で、次のように言われた。
「高野山の鬱蒼と茂る森の中で、空海という真言密教の偉大な行者の呪力
 によって神と仏は固く手を結んだ。この神仏習合の霊的な光は当時ばか
 りか、後世の日本を遍く照らし日本という国の精神を創造したのである。
 偉なるかな空海、偉なるかな弘法大師」

<神仏習合 完>