2015年9月18日金曜日

朝倉さん発表の研究テーマは「川原寺の謎」


9月定例会参加は26名。長寿ポイントシールをお渡しした方、
16名は過去最高人数。
BACが少しでもシニアの生きがい活動に役立つことを願っている。
今月のメインは朝倉さんが語る「川原寺の謎」。
朝倉さんは今回が3度目の発表となる。
シルクロードへの熱い思いが、様々は方向へ広がって行くように
感じられる。

最初に、8月の見仏会「鎌倉国宝館・仏像入門」等について、
何人かの方から感想がご披露された。
「閻魔大王や俱生神などを見て、
地獄についての関心が強くなった。
迎講での極楽と対比さすことで、面白味も増す」
「円覚寺に立ち寄り墓参りを済ませた。
務めを果たすことができ、ほっとしている」等々。

美術館についての情報提供として、三井記念美術館での
「蔵王権現と修験の秘宝」をご紹介した。
金峯山寺のご本尊・蔵王権現と国宝・藤原道長経筒について解説。

いよいよ、朝倉さんのご発表。パワーポイントとレジュメを使い、
解説スタート。
謎の多い川原寺は何時、誰がどの様な目的で建立したのか
諸説あるなか、古代のロマンに迫ってみると前置きされた。

朝倉さん 発表の様子
 
今回のテーマは「1.川原寺の謎」にまとめられている。
朝倉さん作成のPPT画面の一部を掲載。
1.川原寺の謎
 
2.飛鳥京における川原寺の位置   3創建当時の伽藍配置.
 
<遺跡から伺える広大な寺域 >
4.南大門からみた川原寺跡      5.東回廊跡と東室後 

 <出土品>
6.三尊塼仏と塑造断片         7.軒丸瓦
 
       8.復元した塼仏      9.エローラ石窟 壁面荘厳(インド)
 
川原寺の創建、隆盛について
●川原寺の創建は乙巳の変(大化の改新)の頃。皇極から孝徳へ、
 そして皇極が重祚して斉明となった時代であり、西域からの
 外国人が多く渡来した。
 
●天智天皇が崩御した母親・斉明天皇の追善のために川原宮に
 寺を創建したというのが有力な説とのこと。
 
●天武・持統両天皇の時代に川原寺が最も栄えた時代。
 
朝倉さんがスポットを当てた斉明天皇に対して大変興味深く、
また新たな認識を持つことができた。女帝にも関わらず、勇猛果敢で
あったことや西域からの渡来人を厚遇したこと、
特にサザン朝ペルシャ最後の王やその夫人(舎衛夫人)を厚遇する
様子はちょっと驚きでもある。
 
川原寺はなぜ飛鳥に留まったか。
ここが、今回のキーポイントと言える。朝倉さんの解説では・・・
「インド仏教の影響を強く受け、斉明・天武両帝の厚い庇護を受けながら、
独特の地歩を築き、インド石窟寺院の見紛う異様な金堂・伎楽団・瑠璃
(大理石)の礎石など外国に向けて開かれた寺として大きな役割を
果たしてきた。

やがて凋落の時を迎えるこことなる。川原寺は異端さ故に平城京への
移転が許されなかったのではないかと想像される。」
 
遷都に伴う移転が認められないという認識を今まで、あまりしなかった。
移転を拒否されたとは、意外な印象を持った。遷都されると、移転する寺院と
なる場合と移転組、残留組とに分かれる場合があると認識していた。

興福寺は飛鳥の厩坂寺が平城京へ移転した例。

法興寺は元興寺(移転・奈良)、本元興寺(残留・飛鳥)と分かれた。
薬師寺も同様に薬師寺(奈良)と本薬師寺(飛鳥)に分かれる。確かに、
移転が全くないということは、不自然と考える方が妥当かもしれない。
また、残留組は暫くすると衰退している。

写真6、7の出土品から当時の様子をイメージしたり、伝来のルートを探り、
ペルシャ、インドとシルクロードを辿る姿はいかにも、朝倉さんらしいと感じた。
古代のロマンに迫る、よくまとめられたご発表に、ご参加の皆さんは大変感心、
拝聴していた。

朝倉さんから、「興味が広がり、あれこれ調べていくと縦・横が繋がり、
理解が深まる」趣旨の発言があった。心に響いた一言となる。

【今後の予定】
 見仏会:10月 日向薬師(伊勢原市)   11月 浄楽寺(横須賀市)

 研究発表:10月 朝比奈義幸さん 「阿弥陀聖衆来迎像制作と背景」
        11月 渡辺亮一さん 「私の出会った国宝仏像」
        12月 山森平世さん 「莫高窟」
        1月  安元伸夫さん 「仏像の印相」
        2月  中島憲子さん 「鑑真と遣唐使」
 
 

0 件のコメント:

コメントを投稿