前日とは打って変わって穏やかな日となる。参加者も最近になく
大人数の19名。
10時JR鶴見駅西口改札口集合。歩いて10分程度で總持寺に到着。
広い参道や堂々とした総門、三門に驚く。総門の扁額に何と書いて
あるかとの質問を受けた。「三樹松関(さんじゅしょうかん)」と読むようだ。
由来は總持寺の祖院がある能登に、みごとな龍の形をした三本の松樹
があったからとのこと。
総門へ向かって参道を歩く 「三樹松関」の扁額が掛かる総門
総門を通り、進むと参道の両脇には屋台を開く準備がなされていた。
初詣客を迎えるためだろうか。七堂伽藍を示す境内図があった。
境内の広さや、堂宇の多さが一目瞭然。三門と仁王像の大きさに、
皆さん、唖然とする。「東大寺の仁王像より大きいのでは」などとの
声が上がる。
境内図 三門
吽形 阿形
鉄筋コンクリート造りでは、日本一の大きさを誇る三門
三門の下で暫く談笑し、総受付のある香積台(こうしゃくだい)へ向かう。
靴を脱ぎ、ご案内を待つ間、部屋に展示の品々を眺めている。
禅寺には、書画が多いように思える。二祖・峨山(がさん)禅師の頂相
(ちんぞう)や北村西望(きたむらせいぼう)が100歳で書かれた書
「大慈無辺」が展示されていた。力強い見事は書だ。
香積台(こうしゃくだい)
二祖・峨山禅師の頂相 北村西望書の「大慈無辺」
いよいよご案内が始まる。広報担当の若いお坊さん、
増田智賢(ますだちけん)さんが来られた。
堂内の写真撮影は、修行の妨げにならない限り、
OKとのこと。有難い。
大本山總持寺が明治31年の火災にあって、その移転先
にこの地が選ばれたそうだ。
大都市の東京・横浜中間地点であり、布教に相応しい
場所とされた。
お坊さんの話に耳を傾ける皆さん
先ずは「百間廊下」。文字通り百間(1.8m×100=180m)
あったそうだ。今は164mとなっている。
なぜ、百間廊下ができたかは、火災対策のようだ。
西部は修行寮、東部は寺務寮として分けて建て、
一度に焼失することのないようにした。
そこを繋ぐ廊下が百間廊下となった。
百間廊下を歩き、途中右手に見える「仏殿」の解説をお聴きした。
別名「大雄宝殿」、「だいゆうほうでん」と呼ぶ。
「雄」はお釈迦さまのこと、「宝」は三宝の「仏法僧」を意味すると
言われていた。
与謝野晶子が何度も拝観を求め、ようやく特別拝観を、認められた。
ところが、堂内に入るのを憚り、外から拝まれたとの逸話と、その時
に詠まれた歌も紹介された。
「胸なりて われ踏みがたし 氷より
すめる大雄宝殿の床 与謝野晶子」
百間廊下から見る大雄宝殿
百間廊下を進み、ご案内されたのはところは「大僧堂」。
僧堂の中には入れず、戸を開かて見させて頂いた。
畳一畳の中で、座禅をしたり、寝たりする生活の場
となっている。
ここには文殊菩薩が祀られている。この文殊は明治31年の
火災の時に無事助け出されと像とのこと。
禅宗では僧堂には聖僧(しょうそう)文殊が祀られる。
座禅も、曹洞宗では面壁と言って、壁に向かって座る。
臨済宗は壁を背にする。
百間廊下を移動する 大僧堂の中の様子
次に向かった先は「放光堂(ほうこうどう)」。最初の本堂となったお堂。
1911年に山形から移築された。釘をを使っていないため可能となった。
今は位牌堂として使われ仏前結婚式も行われるそうだ。
【放光堂】
放光堂から大祖堂(だいそどう)へ移動する。廊下はまだ新しい木造、
左側通行で滑り止めの文様が彫られていた。
しかも左右で反対の向きとなっている。廊下の右側を歩くと、
滑り止めが機能しないことになる。
また、途中に立派な霊廟が見えた。木原家の霊廟のようだ。
そのお墓についてお坊さんから説明があった。
伽藍を一人で建立するとの申し出があり、流石に一人の寄進での
造立は、好ましくないとの判断から、あの大きな三門の造立を
お願いしたとのことだ。
また、御霊殿では後醍醐天皇が祀られているとの解説があった。
菊の御紋がある理由が分かった。後醍醐天皇と總持寺開山の
瑩山禅師とが深い繋がりを感じさせるものだ。
大祖堂へ移動の廊下 廊下の滑り止め文様
大祖堂の内部に入ると、畳の多さに驚く。また内陣が
広さに比し、椅子席の外陣が狭く感じた。
海岸などの広さの例えに、千畳敷と言う。
文字通り千畳敷とは実に広い。
この畳の上が一杯となる法要はどんなに
壮観だろうと想像した。
広さに比し、椅子席の外陣が狭く感じた。
海岸などの広さの例えに、千畳敷と言う。
文字通り千畳敷とは実に広い。
この畳の上が一杯となる法要はどんなに
壮観だろうと想像した。
この大祖堂に總持寺開山の太祖・瑩山禅師と
その弟子など總持寺興隆に功績のあった高僧が
祀られているようだ。
その弟子など總持寺興隆に功績のあった高僧が
祀られているようだ。
大祖堂千畳敷きの堂内
次の建物は「紫雲台(しうんだい)」。ここでは石川素堂禅師の頂相。
写真と比較しながら、拝見した。總持寺を鶴見の地へ移転することを
決断された時の、貫主だそうだ。
禅宗の寺院では頂相が非常に重要なものとなっている。
弟子が、師匠から頂相を与えられること
写真と比較しながら、拝見した。總持寺を鶴見の地へ移転することを
決断された時の、貫主だそうだ。
禅宗の寺院では頂相が非常に重要なものとなっている。
弟子が、師匠から頂相を与えられること
で、法統(血脈)を継ぐことを認められたことになる。
この頂相は17枚描き直されたとのこと。
何とか己の強さを顔で表現できないかとの思いが
何度も描き直させるということになったようだ。
やはり、頂相への熱い思いを感じる。
何とか己の強さを顔で表現できないかとの思いが
何度も描き直させるということになったようだ。
やはり、頂相への熱い思いを感じる。
また紫雲台で、注目したものは「龍の間」と
東郷平八郎揮毫の扁額「紫雲台」。
いずれも味わい深い一品。
東郷平八郎揮毫の扁額「紫雲台」。
いずれも味わい深い一品。
石川素堂禅師頂相 石川素堂禅師写真
紫雲台の内部 東郷平八郎揮毫の扁額
いよいよ、最後の建物は「待風館(たいふうかん)」。
徳川家から寄進された建物であり、現在の建物は三代目とのこと。
玄関のみ初代のものが残っている。
幕末のころ、篤姫が晩年過ごしたのもこの待風館との
解説をお聴きした。
篤姫もこの玄関を通っていたのかとしみじめ眺めた。
待鳳館(たいほうかん)玄関
スタートした香積台に戻って来た。木彫の「大黒尊天」の解説があった。
もともとインドの神「マハーカーラー」(大きな黒いもの)はシヴァ神のこと。
中国に行って、台所を護る神となり、日本に伝わって来た。
香積台も昔は台所として使われ、大黒尊天が祀られた。
日本では大国主命と習合したり、七福神の一人となったり、
国柄によっていろいろ変遷していくのも面白いところだ。
(台所の守り神は韋駄天となる場合もある。)
大黒尊天 香積台入り口から中観る
香積台をバックに記念撮影をした。シャッターを押して頂くように
受付にお願いしたところ、若いお坊さんに快くお引き受け頂いた。
香積台を背に記念撮影
お坊さんのご案内にもあった、与謝野晶子が感動された
仏殿の中を小窓から覗こうと境内を移動した。
与謝野晶子と同じ気持ちになったか、各自感想を言っていた。
仏殿「大雄宝殿」の内部を眺める
大雄宝殿の本尊・釈迦牟尼仏
總持寺と言えば、石原裕次郎のお墓があることでも、有名だ。
そこで、お墓参りをしてから帰ろうと言うことになった。
墓所の方へ行くと、案内の看板だ出ていた。
大勢の人が来られるのが分かる。
案内板に従って歩くと、裕次郎の墓所に辿り着いた。
お花がたくさん供えられていた。また、木の手入れをされる人
が作業中であった。皆で合掌し、ご冥福を祈った。
石原裕次郎墓所の案内
石原裕次郎墓所 妻・石原まき子の歌
今回の企画は、幹事の井戸さんに予約始め、参拝の段取りを
組んで頂いた。大変中身の濃いものとなりました。
また、年末の慌ただしい時期にも関わらず大勢の方にご参加
頂き、有難うございました。
それにしても、ご案内された若いお坊さんの増田智賢さんは
總持寺の寺名が出る度に、「大本山總持寺」と必ず「大本山」を
付けて言われていた。何回言われただろうか。
禅宗寺院は七堂伽藍の建造物が見事なものが多い。
大本山總持寺も同様に、立派な堂宇が数多くある。
ついでに、七堂とは仏殿、法堂(はっとう)、僧堂、庫裏(くり)、
三門、浴室、東司(とうす)の七つ。
今回は、仏像をあまり拝観できなかった。
禅宗寺院は堂宇ごとに祀る仏が決まっている。
堂宇と照らし合わせた仏像拝観も面白い。
昼食は、駅前のレストランでテーブルを囲み、
歓談しながら美味しく頂きました。(合掌)
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