5月11日(木)、浄瑠璃寺、岩船寺を午前中に参拝し、近鉄奈良駅に戻る。
ならまちで昼食を済ませ、奈良国立博物館で『特別展 快慶 日本人を魅了
した仏のかたち』を観覧した。
観覧した仏像(彫像)が61躯、菩薩面が25面。その内、作者が快慶となって
いるものが33躯25面。快慶作とされる像を注視した。
猿沢の池から興福寺五重塔を望む
奈良国立博物館 特別展 会場案内図
特別展の構成は、「第1章 後白河院との出会い」から「第7章 安阿弥様
の追求」までの7部構成になっている。出陳品一覧の裏面が会場案内図と
なっており、展示の様子も分かるように工夫されている。
第1章 後白河院との出会い
特に注目したのは醍醐寺の弥勒菩薩像(①)と、ボストン美術館の
弥勒菩薩像(②)。
快慶作で一番最初にイメージするする像が醍醐寺の弥勒菩薩像。
端正な顔立ちと金泥塗の表現がマッチし、仏様のモデルのように
思える。1192年制作。
快慶作品のうち最も制作年代の早い像がボストン美術館の像。
1190年制作。元々興福寺に伝来した作品とのこと。
醍醐寺像は後白河院追善のために造立されたとのことであり、
快慶と後白河院との結びつきを示す像となる。
①弥勒菩薩坐像 ②弥勒菩薩立像
(京都・醍醐寺)(アメリカ・ボストン美術館)
第2章 飛躍の舞台へ ー東大寺再興ー
東大寺再興は後白河院主導のもと、重源によって進められた。
その重源に重用されたのが快慶。浄土寺や金剛峯寺は東大寺の
別所となっていたようだ。
浄土寺の阿弥陀如来像(③)は裸形で、像高は2メートル超える。
衣をまとい、迎講 (むかえこう)に登場した。これだけ大きな像が
お迎えに来るシーンは、相当インパクトがあったことだろうと想像
する。1201年制作。快慶作の菩薩面も、25面が展示されている。
四天王の広目天像(④)は、東大寺大仏殿四天王像のひな型として
造られたものではないかと考えられている。醍醐寺に伝来する
「東大寺大仏殿図」という設計図に示された像の10分の1サイズで
ぴったり。10倍すると13.52メートルにもなる。
巨大な四天王が大仏殿の四隅に立つ光景は、さぞや圧巻だったろう。
阿弥陀如来立像(⑤)は俊乗坊重源を祀る俊乗堂に安置されている。
快慶の造った数ある三尺阿弥陀如来立像の中で、端正さの際立った
作品だそうだ。1203年制作。
僧形八幡神像(⑥)は、展示彫像の中で唯一の国宝。図録解説に
「生気みなぎる相貌には東大寺再生に向けた快慶の並々ならぬ決意
が感じられる」とある。八幡神像は基本的には画像で継承されてきた
歴史があるそうだ。彫像として造立されたことは画期的なことのようだ。
色鮮やかな彩色が印象に残り、生きているように映る。
③阿弥陀如来立像(裸形) ④四天王 広目天立像
(兵庫・浄土寺) (和歌山・金剛峯寺)
⑤阿弥陀如来立像 ⑥僧形八幡神像
(奈良・東大寺) (奈良・東大寺)
第3章 東国へ進出
かつて東国に伝来した確証ある作品は、広島・耕三寺の阿弥陀如来坐像
(⑦)と、栃木・真教寺の阿弥陀如来立像の二躯のみ。広島・耕三寺像は
静岡・伊豆山神社旧蔵で1201年の制作。真教寺像は12~13世紀
制作。
静岡や栃木の像と言えば、運慶が北条時政や足利義兼の発願を受け、
制作した像は有名。
⑦阿弥陀如来坐像 ⑧阿弥陀如来立像
(広島・耕三寺) (栃木・真教寺)
第4章 勧進のかたち ー結縁合力による造像ー
京都・遣迎院の阿弥陀如来立像(⑨)の像内には1万二千名もの人々
の名前を記した結縁交名(けちえんきょうみょう)が納められていたとの
こと。1194年頃制作。
お寺の名前の通り、発遣来迎(はっけんらいごう)の二尊として、発遣の
釈迦如来と来迎の阿弥陀如来とで一具となっている。嵯峨野 二尊院の
ご本尊も同じ。
大阪・八葉蓮華寺の阿弥陀如来立像(⑩)は、快慶初期の作風である
単純、明快な着衣の襞の彫りとなっているとのこと。まん丸の顔が印象的。
12~13世紀制作。
快慶自身阿弥陀信仰の強い人だけに、結縁合力(けちえんごうりき)
による造像は快慶が望むところであったろうと想像する。
⑨阿弥陀如来立像 ⑩阿弥陀如来立像
(京都・遣迎院) (大阪・八葉蓮華寺)
第5章 御願を担う ー朝廷・門跡寺院の造像ー
重源が亡くなった後、快慶は朝廷や門跡寺院の造像に深く関わって行く
ことになったようだ。国家の災厄を除くための像を造立することになる。
京都・醍醐寺の不動明王坐像(⑪)や京都・随心院の金剛薩埵坐像
(⑫)はいずれも、密教に出て来る尊像。
不動明王は、両眼を見開く大師様であり、東寺講堂五大明王の
不動明王と同じ造形となっている。金剛薩埵は曼荼羅で重要な役割を
担う菩薩である。制作年は不動明王坐像が1203年、金剛薩埵坐像が
13世紀。
⑪不動明王坐像 ⑫金剛薩埵坐像
(京都・醍醐寺) (京都・随心院)
第6章 霊像の再生 ー長谷寺本尊再興ー
1219年焼失した長谷寺本尊の十一面観音像再興に、快慶が大仏師
として抜てきされた。快慶は仏師の持戒を守り、造仏作法にのっとって
如法(にょほう)に造立したと言う。
快慶が仏教の教義を守る、霊像を造立するに相応しい仏師と認められた
ことを物語るように思える。
京都・正壽院の不動明王坐像(⑬)、アメリカ・キンベル美術館の釈迦如来
立像(⑭)はそのような背景で造立された像と理解した。 不動明王坐像は
12~13世紀、釈迦如来立像は13世紀の制作。
⑬不動明王坐像 ⑭釈迦如来立像
(京都 正壽院)(アメリカ キンベル美術館)
第7章 安阿弥様の追求
運慶と快慶の違いは何かを考えるときに、快慶には「安阿弥様
(あんなみよう)」と言う言葉が浮かぶ。運慶が年齢と共に作風が
変化して行くのに対し、快慶は生涯、自分のスタイルを追求した人
のように思える。
平安時代に定朝の「定朝様」が仏の本様となったように、「安阿弥様」
が一つのモデルとなったことは間違いない。
「安阿弥様」について、清泉女子大学の山本勉教授が30年前に論文で
定義した。「快慶が創始した阿弥陀如来の三尺立像ないし同規模の如来
立像の形式の呼称」。
山本教授は、安阿弥様阿弥陀如来立像の3形式として、衣の重なる形を
分類している。初期の作品に見られる第一形式は、衣の重なりが腹前で
V字になっている。奈良・西方寺像(⑮)やな奈良・安養寺像(⑯)の例。
次いで、第二形式は右肩を覆う衣の下の方を引き出し、たるませ、裏を
見せる形。滋賀・圓常寺像(⑰)の例。
最後に、第三形式は、第二形式にプラスして、左襟部分に下の衣が
引き出され掛かっている形。奈良・光林寺像(⑱)
なお、制作年は西方寺像、安養寺像が12~13世紀、圓常寺像が
13世紀、光林寺像が1221年となっている。
これからは、快慶の三尺阿弥陀像を拝観する際には、衣の重なりにも
注目しようと思いを新たにした。
阿弥陀如来立像
⑮ ⑯
(奈良・西方寺) (奈良・安養寺)
⑰ ⑱
(滋賀・圓常寺) (奈良・光林寺)
☆「なら仏像館」にて
今年、国宝に指定された 大阪、河内長野市・金剛寺 降三世明王坐像に
お会いした。
この降三世明王坐像は、快慶の高弟、行快の作とされる。快慶展を観覧し、
その後に、お目にかかれるとは有難い。大きさ、彩色、忿怒の表情は迫力
満点。
新国宝 降三世明王坐像
(大阪 金剛寺)
☆宇治平等院の近辺を散策
奈良を後にして、宇治で途中下車した。平等院鳳凰堂を眺めたいと思った。
残念ながら閉館時間となり、境内に入ることはできなかった。宇治川の堤防
から木立の隙間から眺めた。宇治川沿いを散歩した。
平等院参道の入り口 宇治川の堤防から見える鳳凰堂
宇治川 源氏物語 宇治十帖
2日目の旅程をすべて終え、京都の宿泊ホテルへ向かった。
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