4月26日(木)10時JR荻窪駅東改札口に集合し、関東バス芦花公園行
に乗車した。参加者は13名。バスには我々以外の乗客は数名のみ。
幹事の3人以外はご長寿ポイントの対象者。お元気な皆さんのパワーに
圧倒される。杉並区の寺院めぐりは、先月の高井戸・吉祥院に続き、二度
目となる。
高井戸1丁目のバス停で下車し、5分程歩くと、「真言宗智山派 医王寺」
の石柱と門(①)が見える。解説板(②)には「寺伝によると、承和元年
(834)弘法大師が箱根山中で彫った薬師像を海星和尚がここ上高井戸
に草庵を建て、本尊として安置した」とある。弘法大師所縁の寺とは、歴史
を感じさせる。
①医王寺の石柱と掲示板 ②医王寺の解説板
山門(③)を通り、ご住職の住まいに伺い、来訪を告げる。直ぐに本堂の
参拝が許可される。志納金もお受取りにならない。なんと鷹揚なご住職‼
本堂に掛かる扁額には「西向薬師 医王寺」(④)と書かれている。
③医王寺の山門 ④本堂の扁額
本堂内陣に入り、ご本尊の薬師如来(⑤、⑥)や両脇侍の日光・月光菩薩
を間近で拝観させて頂いた。光り輝く、美しい像に皆さん、うっとりしながら、
手を合わす。
江戸時代には本堂は南面し、本尊が「大日如来」であり、薬師堂は西面して、
「薬師如来」が安置されていた。ここから「西向薬師」と呼ばれるようになった
ようだ。眼病を治すのに、大変霊験あらたかの仏として「おめだま薬師」の
別称でも親しまれたそうだ。
明治維新の折、廃仏毀釈によって、お寺は薬師堂を残すのみとなった。
さらに、その薬師堂すら関東大震災で倒壊した。しかし、薬師如来像は
少しも損なわれることがなかったと言う。だから霊験あらたかな仏となった。
ご本尊像は寄木造、南北朝期の作であり、杉並区登録文化財となっている。
寺伝の「弘法大師が彫ったとされる薬師像」とは時代が違う。
⑤厨子に入ったご本尊 ⑥ご本尊・薬師如来坐像
ご本尊の両脇侍像について、参加者から質問が出た。「どちらが日光菩薩
ですか?」 ご本尊から見て、左脇侍が日光菩薩、右脇侍が月光菩薩。
手に持つ蓮華の先に違いがあることも伝えた。日光には丸い太陽の形、
月光には三日月形のものが付いている。
天井付近の壁面には、宇治平等院・雲中供養菩薩のように菩薩像が舞う。
(⑦、⑧) 極楽浄土でなく、瑠璃光浄土か?
⑦⑧本堂天井付近の壁面を飾る菩薩たち
本堂での拝観を済ませた後、記念撮影。(⑨) シャッターは、お寺の近くに
住む石岡さんにお願いした。石岡さんは、私と同じNPO所属メンバーであり、
今回は特別に参加した。
境内には、納骨堂前に「仏師・西村公朝(にしむら こうちょう)」作の
「ふれ愛観音像」が安置されている。 お堂は閉まったままであり、隙間
から拝観した。(⑩) 残念ながら、今回は触れることができなかった。
西村公朝さんは、眼のご不自由な方にも、仏を感じることのできる「触れる
仏さま」を制作されていたことでも有名。仏師、住職、東京藝大教授など、
一人何役もされたマルチナ人物。
⑨本堂を背に記念撮影 ⑩ふれ愛観音像
次に歩いて向かった先は、医王寺の境外仏堂。住所は世田谷区(⑪)。
到着すると、お堂を管理される方が扉を開けて下さった。お堂の中には
中央に阿弥陀如来立像、脇侍に観音・勢至が並ぶ。(⑫、⑬)
向かって右隅には厨子に入った薬師如来像も安置されている。
⑪塀に掛かった仏堂の案内 ⑫念仏堂・薬師堂を拝観
⑬念仏堂・薬師堂の内部
なぜ、阿弥陀と薬師が並ぶのか。歴史的な経緯を見ると以下の通り。
中世、ここには当時世田谷一帯を治めていた吉良氏の菩提寺・泉沢寺
(せんたくじ)があった。
泉沢寺は1549年の失火で移転し、その跡地が村の墓地となった。
その地域には古い時代から存在した薬師堂があり、近郷村民はこの
お薬師さんを信仰した。この像は室町時代後期の作と伝えられる。
さらに、薬師堂を念仏道場として、江戸後期には阿弥陀三尊像を安置
した。昭和16年(1942)に檀信徒の懇望によって、医王寺に附属
することとなったとのこと。お薬師さん、阿弥陀さんは共に時代の変遷
を見つめて来た。
この仏堂境内には石造の釈迦涅槃像と地蔵菩薩坐像が並んで安置
されている。(⑭) 釈迦涅槃像(石像)は江戸中期から後期のものと
伝え、都内で唯一の貴重な文化財とのこと。
また、「地蔵菩薩石像は、必ず涅槃尊像と同席安置」との伝承があり、
この地蔵菩薩像も、涅槃像同様に、歴史的価値が高そうだ。
⑭釈迦涅槃像と地蔵菩薩像
その他いくつかの寺社を巡った後、昼食を近くのファミレスで頂いた。
皆さん、食欲も旺盛であり、パワー全開の方々ばかり。恐れ入る。
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