4月27日、伊勢原市の「日向薬師」「大山寺」に続いて、最後に
訪れたのは、秦野市蓑毛(はだのしみのげ)の大日堂や閻魔堂。
これらのお堂は宝蓮寺(ほうれんじ)の所管となっている。また、
「秦野みのげ文化の会」という組織がお堂や仏像の保存活動を
されている。
「蓑毛山 宝蓮寺」の石柱(①)の左手を進むと宝蓮寺本堂があり、
右手道路の向こう側に大日堂などある。保護活動される団体作成
の立て看板の解説板(②)に、お堂や仏像の説明が書かれている。
大日堂は聖武天皇が奈良の大仏を建てるときの勅願所として、
742年に創建され、翌年に本尊大日如来が造立されたそうだ。
その大伽藍を建立したのが行基と言う。何と由緒ある堂宇だろうか。
その歴史に驚く。
①蓑毛山宝蓮寺の石柱 ②秦野みのげ文化の会
による仏像の解説板
朱塗りの仁王門(③)には、阿吽の仁王像が安置されている。
境内に入ると、宝蓮寺大日堂及び諸堂の案内板(④)がある。
「宝蓮寺が丹沢山の登山口及び大山の参道入り口として、要所
に位置し、金目川に沿った山合いの山岳修験信仰の霊場として
ふさわしい場所にある」と書かれている。
宝蓮寺は、現在臨済宗建長寺派の末寺となっている。元々は
修験道や密教系寺院であったことが分かる。
③仁王門 ④宝蓮寺 諸堂案内
仁王門の先に、大日堂(⑤)がある。宝蓮寺の方がお見えに
なり、扉を開けた。堂内へ誘導され、お目当ての五智如来を
拝観させて頂いた。お堂の外には、仏像の案内板(⑥)がある。
そこに詳しく解説文が書かれてある。
中央の金剛界大日如来は県指定重要文化財であり、他の4体は
市指定文化財となっている。制作年代は平安後期と推定とのこと。
一木造、彫眼、材質はヒノキやケヤキ。(⑦)
このような山深いところに、これだけ見事な像が5体揃って残って
いることに驚く。信心深い人たちが護ってきたに違いない。像高
2メートル近くある大日如来は一際輝き、迫力もある。
五智如来の五智とはどのような智慧なのかについて、参加者の
皆さんへ説明した。
五智如来とは別に大きな木造聖観音菩薩立像(⑧)を目にする。
元々観音堂に祀られていた像が、今は客仏として大日堂に安置
されている。傷みが大きく、少し痛々しい感じがした。
⑤大日堂 ⑥大日堂の仏像解説
⑦五智如来 ⑧観音菩薩
不動堂は開扉とならないため、扉の隙間から覗くように拝観。(⑨)
お寺の縁起によると不動堂は7世紀の頃、朝鮮半島からの渡来人
である秦氏が守り本尊の不動明王を祀ったのが始まりとされる。
地名の秦野市と言い、秦氏との繋がりがいかに大きいかを感じる。
⑨不動堂の不動明王
大日堂の次に、扉を開けて頂いたのは、木造十王像を安置する
「茶湯殿(ちゃとうでん)」(⑩)。百一日目に「茶湯供養」と言う法要
を行う場所になるそうだ。そこから「茶湯殿」と呼ばれたのだろう。
通常は閻魔堂と言われるお堂のこと。
⑩茶湯殿(閻魔堂) ⑪木造十王像解説板
閻魔堂は地蔵堂とも呼ばれ、お堂の中央には地蔵菩薩(⑫)
が鎮座している。閻魔王の本地仏が地蔵菩薩であり、一緒に
祀られている。3つの呼称があるとは紛らわしい。
地蔵菩薩像は正徳五年(1715)、閻魔王(⑬)始め十王像には
享保六年(1721)の墨書銘と仏師名も残っている。すべてが
残って、制作年も分かる像は史料的価値が極めて高い。
五智如来像、十王像と、勢揃いしていること自体素晴らしい。
⑫地蔵菩薩
⑬閻魔王 ⑭奪衣婆
閻魔堂(地蔵堂)のそばに「木喰光西上人入寂(もくじきしょうにん
にゅうじゃく)の地」と書かれた案内板が立っている。(⑮)
宝蓮寺地蔵堂の庵主であった木喰光西上人が江戸時代中期、
飢饉などで日本全体が危機に瀕したときに農民を救済したり、
大日堂、仏像の修理などの功績を残し、この地で亡くなったと
伝えている。立派なお坊さんだったようだ。
木喰仏、円空仏と言うように、木喰は個人名と思い込んでいた。
案内板のように木喰上人とは穀物を食べず草根・木皮・果実等
を食物にして修行する僧のことを言う。
⑮「木喰光西上人入寂の地」案内板
日向薬師、大山寺、宝蓮寺大日堂はいずれも奈良時代に起源を
持つ古刹。いずれも歴史の重みを感じる貴重な文化財を目にし
満足の外部探訪日となった。
竹田会長の企画立案にいつも感服。楽しい一日となり、バスツアー
に同行させて頂いたことを感謝し、リポートを終える。(合掌)
<完>
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