2017年9月21日木曜日

鎌倉の光触寺(こうそくじ)と浄妙寺を参拝!


朝8時40分、JR新宿駅構内、スーパー成城石井前に集合し、鎌倉へ
向かった。
参加者は14名。目指すは金沢街道沿いにある光触寺と浄妙寺の2ヵ寺。
両寺院とも、運慶との繋がり感じる。
 新宿駅ホームで新宿湘南ラインを待つ

鎌倉駅東口のバス乗り場5番で乗車。降車バス停が十二所(じゅうにそ)。
バス停から徒歩2分で光触寺に着く。山門(①)をくぐると、参道の両側に
数多くの墓石が並ぶ。
境内に掲示されたお寺の縁起(②)を読む。石造の大きな一遍上人像
(③)が目に入る。時宗の開祖・一遍上人が開基となっている。

塩嘗地蔵(しおなめじぞう)の伝説があるお地蔵さんも本堂の前に並んで
いた(④)。頬焼阿弥陀如来の拝観を予約しており、到着した旨をお伝えする
と、若いお坊さんが本堂(⑤)の扉を開けて、堂内にご案内された。
①光触寺の山門        ②光触寺縁起

③一遍上人の像        ④塩嘗地蔵

本堂内に用意されたパイプ椅子に着席するよう勧められ、ご本尊を挟むように、
左右分かれて席に着いた。ご住職が来られ、頬焼阿弥陀如来(⑥)について
ご説明された。
三代将軍・源実朝の招きで大仏師運慶が来られることを知った町局
(まちのつぼね)が阿弥陀如来像造立を発願し、運慶に制作を依頼したそうだ。
頬焼と言われる理由は②縁起の通り。

ご住職の解説によると造像は建保(けんぽう)三年、1215年とのこと。
現在、造像の年号が判明している運慶最晩年の作は金沢文庫の称名寺
光明院・大威徳明王坐像。造像年が建保四年(1216)と光触寺像より
1年後になる。

称名寺像は、学術的に運慶作と確定している。一方、光触寺像は確定は
していない。しかし美術史家も、運慶作と特定はできないものの慶派による
造像に間違いないであろうとしている。

光触寺の阿弥陀三尊像は、国の重要文化財(旧国宝)に指定されている。
3年程前、鎌倉国宝館での特別展に出陳された。その時、文化庁から頬焼
(左の頬)と右肩の一部に傷みがあることが指摘され、修復することとなった。
ご住職から高額な修復費用をお聞きし、びっくりした。同時に、文化財保存の
大変さを改めて感じた。

阿弥陀三尊像を間近で拝観させて頂いた。薄暗いため、頬焼の状況は
残念ながら確認できなかった。しかし、高額修復費をお聞きし、有難みが
一層増したように思う。
(ネットでの写真)
⑤本堂        ⑥頬焼阿弥陀如来と脇侍像

本堂に祀られている神仏についてご説明があった。驚いたことに堂内に熊野
神社が設えてあった。一遍上人、悟りの場所が紀州熊野神社であったことが
理由とのこと。文字通り神仏習合と言える。

更には、大きな仏頭もご本尊裏の棚に安置されていた。この仏頭は今は廃寺
となった実朝創建、大慈寺本尊の阿弥陀如来像とのこと。大きさから想像して
丈六仏を超える像であったろうと思われる。

暫く、堂内を拝観しながら、ご住職と歓談させて頂いた。大変、ゆったりとした
時間を過ごすことができた。

拝観後、本堂前で記念撮影(⑦)。若いお坊さんにシャッターをお願いした。
次に向かうのは浄妙寺。鎌倉駅方面に向かって歩き出した(⑧)。
⑦本堂を背に記念撮影   ⑧徒歩で浄妙寺へ向かう

浄妙寺は縁起(⑨)にあるように、鎌倉五山第五位の格式高い禅宗寺院。
山門(⑩)を抜けると、銅板葺きの大きな屋根を持つ本堂(⑪)がどーんと
建つ。浄妙寺の開基は足利義兼。足利氏の二代目であり、足利尊氏の
先祖となる(⑬)。

9月26日から開催される東博「運慶展」に出展の真如苑・大日如来像、
足利市光得寺・大日如来像のいずれも足利義兼創建の樺崎寺(かばさきじ)
所縁の仏像。義兼発願、運慶制作の像であることは間違いない。
樺崎寺は足利市に建立され、今は廃寺。

また、尊氏の父親・貞氏の墓所(⑫)もあり、お参りした。我が母校が足利高校
だけに、足利の名がが付くと、大変身近に感じる。足利氏と頼朝の関係について
も系図(⑬)を掲載した。

また、開山の退耕行勇(たいこうぎょうゆう)は、鎌倉時代の南都復興に尽力
した僧。初代勧進僧が重源、二代目が栄西、三代目が退耕行勇。運慶と同時代
の人であり、共に南都復興に貢献された人物と言える。
⑨浄妙寺縁起         ⑩浄妙寺山門

⑪浄妙寺本堂       ⑫足利貞氏の墓所

⑬足利氏系図

浄妙寺参拝を終え、鎌倉駅へのバスに乗った。駅近くのお店に入り、歓談昼食と
なった。今日も、楽しく心穏やかなひと時を過ごすことができた。
感謝(合掌)。



0 件のコメント:

コメントを投稿