数多く所蔵される放光寺。
5.放光寺(ほうこうじ)<真言宗智山派(甲州市塩山藤木)>
放光寺は甲斐源氏の祖、新羅三郎義光の孫に当たる
安田義定を開基とする。また、国重要文化財を4件
も所蔵されている(❶)。
●木造大日如来坐像 1軀 平安時代
●木造不動明王立像 1軀 平安時代
●木造愛染明王坐像 1軀 平安時代
●木造金剛力士立像 2軀 鎌倉時代
金剛力士立像(❸❹)の朱彩は元禄十六年(1703)に
施されたことが、阿形像の体内から発見された木札で判明
した(❷)。彩色が鮮やかなのは江戸時代の修復による。
❶放光寺の沿革 ❷金剛力士像の解説
吽形像の顔はユーモラス(❸)。目を剥き、鼻の穴を膨ら
ませ、口をすぼめて曲げ、ひょっとこのように見える。作者
は奈良仏師の正系・成朝(せいちょう)とされる。ビッグな
名前に驚く。なお、成朝没後、傍系の康慶(運慶の父)が
慶派を名乗って、活躍して行ったことは良く知られている。
❸金剛力士像(吽形) ❹金剛力士像(阿形)
山門を抜け、参道を進み本堂へ向かう(❺❻)。
❺山門を抜け本堂へ ❻本堂と参道
受付を済ませ、お堂の廊下を伝わり、宝物館に案内される。
途中、愛染堂の前を通ると、赤々とした愛染明王像の雄姿
が垣間見えた(❼❽)。
❼愛染堂の前を通る ❽愛染堂の愛染明王像
あった。宝物館は文化財保護の観点から昭和41年に建造
された。それまでは、それぞれのお堂にご本尊として安置
されていた。今は、三体が一緒に保存・保護されている。
中央の金剛界大日如来坐像は放光寺のご本尊。智拳印を
結ぶ姿は密教の教主らしくて頼もしい。当初は、漆箔
(しっぱく、漆を塗った上に金箔を押す)で、金色に
輝いていた。
向かって左端の天弓愛染明王坐像は朱色の、真っ赤な
燃えるような色をしていたとのこと。天に向かって、
矢を射る形が、本来の愛染明王の姿とご説明された。
お経に書かれているそうだ。
また、国の重要文化財となっている天弓愛染明王像は、
京都の神童寺像、和歌山の金剛峯寺像と合わせて3体
とのこと(❿)。
不動明王立像は当初は青色に彩色されていた。今は
色褪せて、青色は確認できない。味わい深くなった
印象があるものの、劣化したとは感じない。
❾宝物館に鎮座する三尊像 ❿重文の天弓愛染明王(参照)
毘沙門堂へ移動する。毘沙門堂の前には源氏の系図(⓫)
が掲げられていた。この図によると、放光寺の開基・
安田義定は源義光のひ孫となっている。沿革(❶)での
解説では孫となっている。何か事情がありそうだ。
毘沙門天立像(⓬)は甲州市の文化財に指定されている。
この像は、開祖像として、安田義定に関係する像らしい。
毘沙門天像造立について、ご住職からご説明があった。
一つは、梶原景時が安田氏を陥れたことを後悔して、
毘沙門天像を造立し、お骨を入れた鎮魂の像とした
とする説。もう一つは、義定自身が信仰のため、造立
したとする説とがあるようだ。
文化庁の調査によると、首のところにお骨らしきもの
が確認できたとのこと。今後の更なる調査も必要と
言われていた。
平安後期・鎌倉期の像が、色鮮やかなのは、江戸時代
の寛文五年(1665)に修理されたからとのこと。
⓫源氏の系図 ⓬毘沙門天立像
来年2月、奈良国立博物館に全国の毘沙門天が集まる
展覧会が開催される。そこに放光寺の毘沙門天像も
出陳される。ぜひとも、観覧したい。
⓭境内から見える宝物館 ⓮境内から見た天弓愛染明王像
すべての拝観を終え、堂外へ出た。宝物館を外から
眺めた(⓭、⓮)。名残惜しく、放光寺に別れを
告げた。
今回も、竹田会長のグッドチョイスで、内容の濃い
仏像めぐりができた。ご参加の皆さんに感謝‼(合掌)
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