2016年5月26日木曜日

静嘉堂文庫美術館で運慶!? 十二神将像を観覧


静嘉堂文庫美術館「よみがえる仏の美」展覧会を観覧する。
今日の参加者は17名。5月14日(土)荻窪東メンバーと既に、
観覧しており、今月2度目の来館となる。
お目当ては、運慶作品の可能性が大きくなった木造十二神将立像と
伊藤若冲がモデルにしたと言う文殊・普賢菩薩像の仏画。

今回は、關先生から頂いた「浄瑠璃寺伝来の木造十二神将立像と運慶」
の論文を読んだ上で、もう一度じっくり眺めることとした。この論文は、
運慶研究の第一人者清泉女子大学の山本 勉教授が書かれたもの。
【2015.12月「東京人 特集 静嘉堂の至宝」に掲載】

展覧会の案内チラシ  文殊・普賢菩薩像(チラシ裏面) 

美術館の門を抜けて、看板    美術館入り口に掲示の写真
 
前回十二神将を眺めた時には、運慶らしいボリューム感をあまり、
感じない細身の印象を受けた。参加者の中から、これは運慶作品の
特徴を感じないとの発言も聞こえた。
 
今回の参加者も、無著・世親像を見た時の感動が忘れられない。
それ以来運慶が好きになった。この像にはその時の感動がない。
だから運慶ではないのではと言う人もいた。
 
この十二神将立像については、近年、像内に「大仏師運慶」などと
記された銘文があった、という明治時代の新聞記事が見つかり、
運慶作の可能性が高まった。
山本先生は十二神将立像(静嘉堂7体、東博5体)と合わせて、
興福寺南円堂の四天王立像を運慶作と推定されている。
その山本先生は、次のように書かれている。
(上記の論文の中で)
 
「四天王像は雄大な体躯の大ぶりな動きやにぎやかな装飾に
異国感があふれ、弥勒仏に住む者という印象があります。
それに対して十二神将は現実世界で各像がくるくると動き回る
ような軽快な印象が強調されています。

四天王像の眼が本体と同じ木材から彫りあらわされた調眼で
あるのに対して、十二神将像は内側から水晶レンズをはめた
玉眼であるのもそれにかかわっています。」
 
「運慶は群像全体を見すえて、そのなかでの相互の関係を
考えながら、一体一体の像にもっともふさわしい姿や表現技法を
与えた仏師です。十二神将像にもそういう運慶の造像態度を見る
ことができるように思うのです。」

つまり、運慶作品というにはやや軽快・繊細に過ぎるとの印象を
与える。運慶はその像の持つ役割そのものの表現し、意識的に
軽快・繊細にしたと言うことだろう。
運慶ファンは、自分なりの運慶仏イメージを持っており、その
イメージと相違すると、運慶ではないと、言いたくなる。
 
この論文を読ませて頂き、なるほどと納得した。十二神将は動き
やすい細身に造る必要があった。山本先生の鑑識眼と運慶の
卓越した表現技法両方に感心した。表面だけで、深く理解しない
まま、判断すると、今回のように見誤る(?)ことも起こるのでは
ないか。

東京都美術館の伊藤若冲展は3時間待ちで、観覧を諦めた。
そこで、今回展示の文殊・普賢像を暫くじっくりと眺めていた。
制作年代は14世紀で、600年以上も経っている。
それにも関わらず、色彩が鮮やか。若冲は色彩の
鮮やかさもならったのだろうと思う。
 
その他、注目しことは「百万塔及び百万陀羅尼」が、岩崎彌之助への
お礼として法隆寺から贈られたとの解説があった。
彌之助の寄付や寄進がいかに莫大であったかと想像する同時に、
そのお礼に持統天皇時代の遺産が贈られたことにも驚かされる。
法隆寺も、価値の分かる人なら、大事に保存してくれると思ったに
違いない。
 
観覧後は、いつものように記念撮影
【5月14日 荻窪東メンバー】     本日の西荻北メンバー
 
観覧後、岩崎家廟堂をお参りすることとした。廟堂がジョサイ・アコンドル
によって建造されたと案内板に書かれている。ジョサイア・コンドルと
言えば、ニコライ堂、旧岩崎邸、旧古川庭園、三菱一号館、杉並では
妙法寺鉄門と数多くの名作を残されている。
 
岩崎家廟堂案内            岩崎家廟堂
 
 
なお、山本先生によると、運慶作品は次の4つの要件から
確定されるそうだ。
①作品自体に造像当初の銘記あるいは像内納入品があって
  運慶作品と確定できる
②同時代の確実な史料に運慶作品として記述されている像に
  明らかに該当するもの
③後世の史料に運慶の作であると記されており、作風も
  それに矛盾しないもの
④作品の作風・構造技法や伝来状況に関する現代の
  美術史研究により運慶作品と考えられるもの
①②で18体、③④で13体、合計31体が現在、運慶作品とされる。
 
ご参考までに、運慶作31体を掲載した。今後の調査で、
更に16体が運慶作となる可能性が大きくなっているようだ。
 
a静嘉堂文庫美術館と東京国立博物館で分けて所蔵する
  十二神将立像(12体)
  【京都木津川市の名刹浄瑠璃寺から流失した仏像】
b興福寺南円堂の四天王立像(4体)
  【山本先生は北円堂の四天王ではないかとされる。
  北円堂には運慶作の弥勒仏、
   無著・世親像が安置されている】
a+b=16体 
運慶仏31体
 
今後運慶作品となる可能性のある像
 興福寺南円堂の四天王像
 
運慶についての話題は尽きない。浄瑠璃寺の薬師如来と十二神将が
一堂に会する展覧会を待ちたい。
 
 
 
 

2016年5月20日金曜日

「岡山県・弘法寺の踟供養」、「大分県の石仏・磨崖仏」拝観報告会


5月定例会は24名。荻窪東グループから3名と新規会員1名の
4名も加わった。
今回は2つのご発表。朝比奈さんの「岡山県・弘法寺の踟供養」と
山森さんの「大分県の石仏と磨崖仏」。お二人とも精力的に活動
される方で、体験談発表の常連となっている。

先月参拝のあきる野市・大悲願寺について、参加者から感想を
伺った。歴史のあるお寺であり、八十八カ所霊場巡りや萩の季節に
もう一度参拝したいとの声も出ていた。

お寺発刊の冊子を見ると、先々代のご住職は真言宗豊山派の
管長をされたことが分かった。格式の高いお寺に違いない。

いよいよ、朝比奈さんのご発表。朝比奈さんは阿弥陀聖衆来迎像を
ライフワークとして制作されている。来迎像の調査に極めて熱心に
取り組まれている。
關信子先生監修の弘法寺の踟供養はぜひ拝観したとのことで、
關先生にご一緒させて頂いた。
発表者が前に着席      朝比奈さんの発表の様子
 
弘法寺踟供養再興に關先生のご尽力がいかにあったかが、
良く分かった。昭和42年の火災で30年間中断していたものを
復活さすエネルギーは並大抵でないことは容易に想像がつく。 
弘法寺踟供養の歴史          弘法寺の場所
 

弘法寺遠景            踟供養のお面
 
昭和42年以前の踟供養       昭和42年の火災

昭和9年再興後の踟供養        踟供養行列の様子
 
来年は再復興20年の節目の年となり、益々全国から注目される
一大イベントとなることを願っている。
BACで弘法寺踟供養拝観ツアーを企画して、エールを送りたい。
 
~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
 
続いて、山森さんの大分石仏・磨崖仏の探訪記。最初に磨崖仏の
意味と歴史について解説された。
磨崖仏とは岩面などに彫った仏像で、移動できないものを言う。
奈良時代の後期に、奈良県内の川に面した岸壁に刻んだものが
初期のものとされるようだ。
 
その後、平安時代に入ると山岳信仰や密教の影響を受け、最も盛ん
になり、北は東北から南は九州まで広がり、多く造られたとのこと。
鎌倉時代には衰退したようだ。
発表される山森さん        磨崖仏の所在地
 
大分県には日本国内にある磨崖仏の8割がある。磨崖仏唯一の
国宝も、大分の臼杵磨崖仏。
熊野磨崖仏              臼杵磨崖仏

臼杵石仏群の遠景            ホキ第二群
 
ホキ石仏第一群
阿弥陀三尊像           地蔵十王像

大日如来 頭部復位        大日如来 年越供養法要
 
頭部を元の位置に戻すことを復位というようだ。頭が身体の上に
乗り、大日如来も心穏やかになったようにも見える。石造大日如来を
前に年越供養法要を行うとはいかにも大分県らしい。
行く年への感謝と来る年の安穏を願い、臼杵石仏へ祈願・法要を
執り行う。
 
最後に、アフガニスタン、中国、韓国の石仏についてもご紹介された。
色彩と、石仏は山森さんの得意分野であり、またご発表を期待している。