2022年2月22日火曜日

東寺の歴史と寺宝(Ⅱ)

東寺講堂の立体曼荼羅について整理する前に、空海の著作と思想に触れたい。
空海は沢山の著作を残している。その中で注目したのが『三教指帰(さんごう
しいき)』、『弁顕密二経論(べんけんみつにきょうろん)』、『秘密曼荼羅
十住心論(ひみつまんだらじゅうじゅうしんろん)』。(❶) 

1.三教指帰
 『三教指帰』は空海が24歳の時に記した『聾瞽指帰(ろうこしいき)』を後
 に校訂、改題したものである。空海の出家宣言の書と言われており、戯曲風
 に書かれている。儒教、道教、仏教を比較し仏教の優位性を結論付けている。

 儒教は、立身出世ための処世術を記した指南書であり、人生をいかに生きる
 か、何のために生きるかと言う根本命題を説いていない。道教はいかに生き
 るかを説くも、現実世界と遊離した生き方は虚無的(ニヒリズム)である。

 仏教はいかに生きるか何のために生きるかと言う根本命題に向き合いながら
 現実社会との関りも説いている。空海の問題意識に応えるものであった。従
 って、仏教が道教、儒教より優位にあるとしている。

2.弁顕密二経論
 弁顕密二経論とは、大乗仏教の顕教と密教とを比較し、密教の優位性を説い
 た教相判釈(きょうそうはんじゃく)の書である。注目する主要な点を❷に
 まとめた。

 顕教は報身仏(ほうじんぶつ)、応身仏(おうじんぶつ)が説く仏教である。
 報身仏とは、誓願を立て誓願が成就したことにより仏陀となった阿弥陀如来
 や薬師如来が該当する。応身仏とはこの世に生まれ、仏陀となられたお釈迦
 様のことである。

 報身仏、応身仏とも悟りに達したものの、悟りの中身については明確になっ
 てない。お釈迦様は悟りを得た後、梵天から説法してほしいとの要請に対し、
 悟りを人に伝えることはできないと断っている。即ち、言葉では伝えきれな
 いものであるとお釈迦様自身自覚されていた。(梵天勧請3度目で説法する
 ことを了承した)

 密教では、悟りの中身=宇宙の真理=法身仏(ほっしんぶつ)=大日如来の
 図式を描いた。言葉では伝えきれないことを前提にして、論理立てている。
 「法身説法」「真言」「種字(梵字)」「印相」など五感を通じて体感体得
 することを志向している。

 極めつけは「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」である。顕教は「三劫成仏
 (さんごうじょうぶつ)」として、気の遠くなる歳月、何度も生死を繰り返
 す輪廻転生を経ないと成仏できないとしていた。一方、「即身成仏」はこの
 身このまま生きたまま成仏できるとした。正に、宗教革命、コペルニクス的
 転回と言える。

❶空海の代表作と思想    ❷弁顕密二経論の骨子

3.秘密曼荼羅十住心論
 悟りへ至る段階を第一の「煩悩」から到達点・第十の「密教」まで十の段階
 とした。第三段階までが日常の世界である「世間」であり、第四段階からが
 非日常の世界「出世間(しゅっせけん)」としている。(❸)

 出世間からが仏教の世界であり、声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)の
 仏教修行者の境地が第四・第五段階となり、その上に顕教の宗派を割り振っ
 て行く。

 この教判書が出た時には、他宗派から相当な反論がなされたであろうと思わ
 れる。密教の前段階(第九段階)に廬舎那仏の華厳経が置かれていることは
 理解できる。廬舎那仏の発展形が大日如来であり、密教との関連性が強い。

 この秘密曼荼羅十住心論は、淳和天皇の勅命を受け提出されたものである。
 十住心論を広論とし、略論として秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)も同時に提出
 している。他宗派の状況は❹の通りである。他宗派は一書のみで、巻数も少
 ない。空海の自信と気迫も感じさせるボリュームとなっている。
❸十住心論        ❹天長六本宗書

4.密教、曼荼羅について
 空海の著作を離れて、密教のあらましと曼荼羅の本来的な意味について整理
 する。密教とは「文字で伝えられない秘密の教え」とされる。「秘密」と言
 うと、何かを隠しているようにとられかねない。隠すのではなく言葉にして
 オープンにすることができないと言う意味である。ここが経典で伝える顕教
 との違いだ。

 文字で伝えられないからこそ、曼荼羅、真言、種字、印相など五感に訴える
 手段が必要となる。灌頂(かんじょう)と言う密教の儀式は受戒や修行者が
 が上の位に上がる時に行われる。師資相承(ししそうしょう)と言い、師か
 ら弟子へ口で伝えられる。(❺)

 禅宗の不立文字(ふりゅうもんじ)、教外別伝(きょうげべつでん)と共通
 するところがあると思える。経典や言葉で伝わるものではなく、体験によっ
 て伝わるもの、心から心へ直感的に伝えられるものである。

 文字や言葉で伝えられないから「マンダラ」が使われるようになった。それ
 では「マンダラ」とはいかなるものであるか。本来的な意味から考えてみた
 い。仏教発祥の地、インドでは古くから円形の土の壇を作って、神々を勧請
 し、祈願したと言う。その壇のことを「マンダラ」と言う。

 「Mandala(マンダラ)」は「Manda(マンダ)」と「la(ラ)」に分か
 れる。マンダは本質、ラは具えているものを意味するそうだ。つまり、本質
 を具えているものがマンダラとなる。

 悟りの本質を表したものがマンダラ(曼荼羅)でり、密教にとって曼荼羅は
 無くてはならないものと言える。(❻)
❺密教のあらまし      ❻曼荼羅の本来的意味

空海思想に対する記述は筆者の個人的意見であり、誤解や理解不足から適切で
ないことがあればご容赦願いたい。
次回は空海の曼荼羅に対する考え方や東寺講堂の立体曼荼羅について整理する
こととしたい。

<続く>



2022年2月13日日曜日

東寺の歴史と寺宝(Ⅰ)

 「古寺名刹参詣の自分流楽しみ方」シリーズの第5弾は『東寺』にしたい。
東寺は、京都を訪れるたびに参詣する寺院ある。空海所縁の寺院と言うこと
で、関心・興味が尽きない。

東寺は複数回に分けて整理することとした。先ずは、歴史と寺宝を概観し、
次いで、空海の思想と曼荼羅を別の回に整理したい。

1.歴史、伽藍、寺宝
 桓武天皇は平城京から長岡京に遷都し、造営責任者の藤原種継が暗殺され
 たため、わずか10年で再び平安京に遷都した。遷都理由の一つに奈良仏教
 の僧侶が政治に介入することを排除しようとしたことが挙げられる。道鏡
 の事件が直ぐに思い起こされる。

 平安京には官寺の東寺、西寺以外に寺院の造営を認可しなかった。そうし
 た時代背景の中で東寺が誕生した(❶)。

 東寺の略年表に空海の関りを記したのが❷である。空海は遣唐使として唐
 に渡り密教を請来した。嵯峨天皇の信任が厚く、東寺別当となり、やがて
 東寺を賜る。

❶東寺の歴史と寺宝      ❷略年表と空海の足跡

 東寺の伽藍配置が分かる境内案内図(❸)と堂塔に安置の諸尊像(❹)で
 境内の建造物と文化財の仏像について概観できる。南大門、金堂、講堂、
 食堂と一直線に並び、南大門を挟むように五重塔と灌頂院が建つ。
❸東寺境内案内図      ❹堂塔に安置の諸尊像

2.主要堂塔の再建
 木造建築の寺院は焼失、再建を繰り返して来た。現在の東寺・主要堂塔に
 ついての再建年をまとめた(❺、❻)。国宝・重文の建造物もすべて再建
 された建造物である。豊臣秀頼や徳川家光が再建を支援していたとは興味
 深い。
❺堂塔略年表と再建年      ❻主要堂塔の再建状況

3.各堂塔の寺宝・諸尊像(立体曼荼羅を除く)
 (1)金堂、御影堂
   東寺のご本尊が金堂の薬師如来坐像である(❼、❽)。日光・月光の
   両脇侍像を従え、十二神将は薬師如来の台座を支えている。

   御影堂(大師堂)はかつて弘法大師の住房であった仏堂である。そこに
   国宝の弘法大師坐像、不動明王坐像が安置されている。不動明王像は、
   弘法大師の念持仏とされ、秘仏で御開帳されることはない(❼)。

   弘法大師坐像の作者が運慶の4男、康勝(こうしょう)とされる。運慶
   の工房が東寺に深く関わっていたことを示している。康勝の作品として
   有名な像は法隆寺金堂の阿弥陀如来坐像や六波羅蜜寺の空也上人立像が
   ある(❾)。

❼金堂・御影堂の仏像    ❽金堂本尊と諸尊像

❾康勝の作品

 (2)宝物館、鎮守八幡宮
   東寺の守護神とも言える像が宝物館安置の兜跋(とばつ)毘沙門天立像
   と八幡宮の八幡三神像。兜跋毘沙門天は平安京の正面入口である羅城門
   楼上に置かれ、平安京を守護してきた。八幡三神像は平安京鎮護のため
   空海が請来・造立したものではないかと言われている。

   兜跋毘沙門天の「兜跋」とは一般的に現在の中国ウイグル自治区にある
   トルファンとされている。シルクロードの要衝として栄えた都市である。
   守護神と所縁のある土地で(同化政策のためか)民族的な迫害を受けて
   いるとの報道を耳にする。兜跋毘沙門天の守護を祈るばかりだ。

   2013年に東北を旅した時に、岩手県花巻市の成島毘沙門堂で拝観した
   兜跋毘沙門天像を思い出す。5m近い巨像で迫力満点であった(⓫)。
❿宝物館と八幡宮の尊像   ⓫成島毘沙門堂の毘沙門天像

 (3)観智院 
   観智院は東寺の北大門を出たところにある。所蔵する五大虚空蔵菩薩は
   鳥獣坐の台座が非常に興味深い。この像は空海の師匠である恵果阿闍梨
   の念持仏であったものを空海の孫弟子、安祥寺の恵運(えうん)が請来
   したと伝えられる(⓬)。

   安祥寺の開山が恵運であり、開基が藤原順子(ふじわらののぶこ)であ
   る。2019年に五智如来座像が国宝に指定された。東寺講堂の五智如来は
   焼失後に再制作されたものであり、この安祥寺像が日本最古の五智如来
   像となる。
⓬観智院の五大虚空蔵菩薩像   ⓭安祥寺の五智如来像

 (4)五重塔
   五重塔の内部は、心柱を大日如来にし、4面に菩薩を従えた如来が安置
   されている。また、壁面には真言八祖像が描かれている。真言八祖とは
   真言密教を伝えたインド、中国、日本の祖師のことを言い、弘法大師が
   法脈を受け継ぐ承継者となる(⓮⓯)。

⓮五重塔内部と配置図   ⓯五重塔の五智如来


<続く>




2022年2月1日火曜日

東大寺の歴史と寺宝(Ⅱ)

前号に続き、東大寺の寺宝(文化財)についてまとめた。今回は、法華堂
大仏殿、南大門とそれぞれの堂宇に安置された諸尊像について整理した。

1.法華堂
  法華堂は須弥壇のある正堂(しょうどう)と礼拝するスペースの礼堂
  (らいどう)を接合部(造り合い)で繋いだ建物となっている。正堂は
  創建当初(奈良時代)のお堂であり、礼堂が鎌倉時代の建立である。

  法華堂は、2010年5月~2013年4月の3年間をかけて一世紀ぶりの修理
  がなされた。その時の様子が2013年5月にテレビで放映された。朝日
  放送制作で、「天平の美を守れ~東大寺法華堂・修理の記録~」と言う
  番組名であった。法華堂が危機に晒されていた様子を知ることとなった。

  堂内の仏像は一体一体丁寧に梱包され、運び出され、国宝修理所へ届け
  られ、傷みの調査や修理を受けていた。修理の甲斐あって須弥壇始め、
  堂内も、仏像も晴れやかになったように見えた。

❶法華堂

  法華堂修理の期間中に当たる、2011年10月に東大寺ミュージアムが開館
  した。法華堂修理完了後に、法華堂に戻らないでミュージアムに移った
  仏像は4件8躯(国指定文化財としてのカウント)ある。(❷❸❹❺)

  国指定文化財の名称(❹)によれば、国宝 塑造<日光仏/月光仏>立像、
  重文 弁財天吉祥天立像、木像地蔵菩薩坐像、木像 不動明王二童子像の8軀
  であり、これだけの像が法華堂から去ると、堂内が少し寂しく感じるよう
  にもなった。(❺)

  なぜ移動となったのだろうか? 法華堂本来の像ではなく、客仏だったから
  だろうか? 法華堂本来の像については諸説ある。本尊の不空羂索観音が
  立つ八角二重壇の下段に6つの台座痕跡があり、6体が本尊を囲んでいたと
  分かる。

  その6体とは塑造日光・月光菩薩像(本来像名は梵天・帝釈天)と戒壇堂の
  塑造四天王像(❾)であり、当初の安置仏は執金剛神像を加えた8体では
  ないかとの説だ。乾漆像の大きな本尊を塑像群が囲む光景を見てみたい。

  本来像に諸説があり、どの像が本来像か、どの像が客仏かを見分けるのは
  難しいように思える。今回移動した像は塑造が多い。免震装置を備えてい
  るミュージアムの方がより安心と考えたのかもしれない。

❷以前の法華堂内陣    ❸現在の法華堂内陣

❹法華堂安置・旧安置仏像一覧 ❺法華堂からミュージアムへ

  現在、法華堂安置の仏像10躯はすべて国宝。執金剛神像のみが塑造であり、
  他の9軀はすべて脱活乾漆造である。これだけ乾漆像が揃うお堂は無い。
  天平の美を象徴する尊像揃いと言える。(❻❼❽)
  
  執金剛神像は本尊の不空羂索観音像と背中合わせで北向きに立つ。開山
  の良弁僧正念持仏と言われる。この像は伝説があり平将門の乱の際には、
  髻(もとどり)の元結(もとゆい)紐が蜂となって飛んで行き、将門を
  刺して、乱を平定したとのことだ。(❻)
❻不空羂索観音/執金剛神  ❼金剛力士/梵天・帝釈天

❽四天王像(脱活乾漆造)  ❾戒壇堂四天王像(塑造)

2.大仏殿
  大仏殿は2度の大火に見舞われており、重源が復興した鎌倉時代のものは
  史料でしか確認できない。大仏殿の諸尊像は運慶、快慶などの慶派仏師が
  制作したことが分かっている(❿)。
  
  もし、当時の像が残っていたら、どれほど圧倒される迫力だったろうかと
  想像する。返す返すも残念だ。制作に携わった仏師は以下の通り(❿⓫)。
  【脇侍像】 如意輪観音…定覚・快慶/ 虚空蔵菩薩…康慶・運慶
  【四天王】 持国天…運慶/増長天…康慶/広目天…快慶/多聞天…定覚
  平氏の時代には不遇の身であった慶派仏師(⓬)が源氏の世になって一躍
  表舞台に出て来た。

  現在は、火災によって損傷を受け、その都度修復を重ねてきた廬舎那仏と
  江戸時代に再建された両脇侍像(⓭)と広目天と多聞天(⓮)が大仏殿に
  鎮座されている。

  金剛峯寺所蔵の四天王像の中で、広目天像に「快慶の銘」がある(⓯)。
  東大寺像の10分の1のサイズであり、ひな型ではないかとされる。更に
  海住山寺(かいじゅうせんじ)の四天王像も同じ図像を基に制作された
  のではないかと思われる。13mを越える四天王像が大仏殿に立っている
  と想像しただけでワクワクする。
❿東大寺続要録記載の製作者 ⓫大仏殿諸尊像と製作者名

⓬慶派仏師一覧と系統図   ⓭現在の廬舎那仏と両脇侍像

⓮大仏殿の広目天・多聞天像  ⓯同じ図像に基づく四天王像

3.南大門
  南大門は三好松永の合戦での焼失を免れ、鎌倉時代の姿を今日に伝えて
  いる。
  運慶、快慶作の仏像が焼失することなく、今日拝観できるのが南大門の
  金剛力士像だ。吽形像は定覚と湛慶(⓰)、阿形像が運慶と快慶(⓰⓱)
  との確証がある。

  これだけの超大作がわずか69日と言う短期間で造立されたとのことだ。
  正に神業としか言いようがない。

⓰金剛力士像内納入物と墨書銘  ⓱金剛力士像墨書銘(拡大)

⓲金剛力士像(阿形・吽形)

東大寺の歴史は文化財を通して、学ぶことができる。正に、生きた教材として
国民共有の文化遺産と言える。大事に守って行く責任がある。

約1300年前(奈良時代)に、天然痘が大流行した。100万~150万人が感染し
死亡したとのことだ。当時の人口の25~35%に当たる。科学の発達していない
時代であり、廬舎那仏に祈るしかなかった。

翻って、科学が発達した今日はどうだろう。コロナウイルスに振り回されて
いる。未知のウイルスであり、仕方ない面もある。然しながら、せめて対処
方法は納得感のある科学的方法でお願いしたい。「自己診断で自宅療養」など
の指針は、1300年前に戻ってしまったように感じる。