2017年5月24日水曜日

京都の古刹巡り③~東寺・仁和寺・渉成園~


京都・奈良旅行の最終日(5月12日)は、東寺、仁和寺、渉成園枳殻邸
(しょうせいえんきこくてい)を巡った。最初に向かった先は空海さんの東寺。
目的の一つが、五重塔の内部を拝観すること。

バスに乗り、北大門の前で下車。大勢の高校生が歩いている。修学旅行生
かと思いきや、東寺のそばに高校があり、通学する高校生だった。歴史的な
場所に隣接する高校は刺激的だ。

北大門に向かって歩くと、手前左手に観智院がある。以前拝観したことがある。
鳥獣座に乗った五大虚空蔵菩薩が記憶に残る。宮本武蔵が描いた襖絵もある。
時間割りの関係で、今回は残念ながらパス。

1.東寺 
  ①五重塔
  最初に向かった先は、期間限定でご開帳となっている五重塔内部。案内板に
  五重塔の如来像についての解説と配置図が書かれている。
  (案内板を見易くするため、上下2つに分けて、ブログにアップ)
  東面が入口、南面が出口になっている。講堂 立体曼荼羅の五智如来と同じ
  金剛界の如来像。心柱が大日如来と見なされている。如来の識別は印相で
  しかできない。

  壁には真言八祖像が描かれている。心柱の大日如来を両側から囲むような
  順番で描かれている。第一祖の龍猛から順に龍智、金剛智、不空、反対側に
  回り、善無畏、一行、恵果、そして最後に弘法大師空海となっている。
北大門         五重塔

五重塔の如来像解説    五重塔内の配置図

南面 宝生如来

  ②金堂
  今回注目したのは、十二神将像。薬師如来には、日光、月光の両脇侍像と
  眷属の十二神将が付き従っている。十二神将が薬師如来台座の周りを
  ぐるりと囲む。台座を支えているようにも見える。

  現在の薬師三尊像、十二神将像は、堂宇と共に1603年、豊臣秀頼の
  寄進によって再興された。小さく見える十二神将も像高が1メートルある。
  寄木造り、玉眼が嵌入されている。彩色も残っている。
  
  金堂は、講堂立体曼荼羅の陰に隠れてあまり目立たないようにも思われる。
  しかし、大変興味深い堂宇と諸尊像だ。 
金堂           薬師三尊像

卯神像      酉神像

  講堂の立体曼荼羅はいつもながら壮観。境内をぐるりと散策した後、
  京都駅に戻り、次の仁和寺へ向かう。

2.仁和寺
  宇多天皇は東寺で出家受戒し、仁和寺に入寺した。そして、ここを
  「御室御所」と称した。その後、仁和寺は退位した天皇が入寺し、
  門跡寺院の起源になった。

  宇多天皇は密教に通じ、かつ実践された天皇。また、藤原氏に対抗
  するために、菅原道真を重用したことでも有名。仁和寺は、現在
  真言宗御室派の総本山。

  最初に眼にするのは、威風堂々の山門。「二王門」と表記され、解説文が
  あった。1637年から1644年にかけて建立されたとある。
  徳川三代将軍家光の寄進によって建立された。またこの二王門は京都
  三大門の一つとして、知恩院や南禅寺の三門(山門)と並び称される。
仁王門         仁王門解説

吽形        阿形

  庭園が整備作業中とかの理由で、無料開放となっていた。何とラッキー
  なことかと喜ぶ。御殿入口から入り、白書院で南庭を眺め、更に進み、
  宸殿から北庭を暫く眺めていた。庭園の先に五重塔が見える景色が
  何とも言えない。

  仁和寺庭園は京都市指定名勝となっている。解説板に「宸殿の庭園と
  重要文化財の飛濤亭、遼郭亭の露地から構成されている」とある。
  露地(ろじ)とは茶庭ともいい茶室に付随する庭園の通称のこと。つまり、
  宸殿の庭園と茶室の茶庭が一体となっていると言うこと。

  仁和寺の庭園を前にして、廊下に座り込み、静かな時間を過ごす。
  至福の時となる。
庭園          庭園解説

  宸殿の部屋に宇多法皇の図像を眼にし、記念に1枚写真を撮らせて
  頂いた。
  御殿を出るときに、扁額の解説を受け、写真を撮るよう勧められた。
  「華蔵界会」(けぞうかいえ)と読む。「華蔵界」とは「蓮華蔵世界」
  のこと。蓮華蔵世界で会うとのことらしい。何やら奥深い意味が
  ありそうだ。また、訪れたい。
宇多法皇像        「華蔵界会」の扁額

3.渉成園 枳殻邸 (しょうせいえん きこくてい)
  最後に、東本願寺の飛地境内地、渉成園を訪れた。
  「渉成園十三景と諸建築」として見事な景観や特徴ある建物を楽しめる。
  また「四季のうつろい」として、季節の花も鑑賞できる。
渉成園入口        園内マップ

印月池(いんげつち)    傍花閣(ぼうかかく)
回棹廊(かいとうろう)     朴木(ほうのき)
  
  朴木(ほおのき)の白く大きな花を眺めることができた。朴木の葉は
  自生する樹木の中で国内最大級(25~30㎝)。朴葉寿司、朴葉味噌
  などに使われる。朴木の花を愛でて、京都旅行を終えた。





2017年5月22日月曜日

奈良博で『特別展 快慶』を観覧 ‼


5月11日(木)、浄瑠璃寺、岩船寺を午前中に参拝し、近鉄奈良駅に戻る。
ならまちで昼食を済ませ、奈良国立博物館で『特別展 快慶 日本人を魅了
した仏のかたち』を観覧した。

観覧した仏像(彫像)が61躯、菩薩面が25面。その内、作者が快慶となって
いるものが33躯25面。快慶作とされる像を注視した。

猿沢の池から興福寺五重塔を望む
奈良国立博物館       特別展 会場案内図

特別展の構成は、「第1章 後白河院との出会い」から「第7章 安阿弥様
の追求」までの7部構成になっている。出陳品一覧の裏面が会場案内図と
なっており、展示の様子も分かるように工夫されている。

第1章 後白河院との出会い 

  特に注目したのは醍醐寺の弥勒菩薩像(①)と、ボストン美術館の
  弥勒菩薩像(②)。
  快慶作で一番最初にイメージするする像が醍醐寺の弥勒菩薩像。
  端正な顔立ちと金泥塗の表現がマッチし、仏様のモデルのように
  思える。1192年制作。

  快慶作品のうち最も制作年代の早い像がボストン美術館の像。
  1190年制作。元々興福寺に伝来した作品とのこと。

  醍醐寺像は後白河院追善のために造立されたとのことであり、
  快慶と後白河院との結びつきを示す像となる。
①弥勒菩薩坐像   ②弥勒菩薩立像
(京都・醍醐寺)(アメリカ・ボストン美術館)

第2章 飛躍の舞台へ ー東大寺再興ー

  東大寺再興は後白河院主導のもと、重源によって進められた。
  その重源に重用されたのが快慶。浄土寺や金剛峯寺は東大寺の
  別所となっていたようだ。

  浄土寺の阿弥陀如来像(③)は裸形で、像高は2メートル超える。
  衣をまとい、迎講 (むかえこう)に登場した。これだけ大きな像が
  お迎えに来るシーンは、相当インパクトがあったことだろうと想像
  する。1201年制作。快慶作の菩薩面も、25面が展示されている。

  四天王の広目天像(④)は、東大寺大仏殿四天王像のひな型として
  造られたものではないかと考えられている。醍醐寺に伝来する
  「東大寺大仏殿図」という設計図に示された像の10分の1サイズで
  ぴったり。10倍すると13.52メートルにもなる。
  巨大な四天王が大仏殿の四隅に立つ光景は、さぞや圧巻だったろう。

  阿弥陀如来立像(⑤)は俊乗坊重源を祀る俊乗堂に安置されている。
  快慶の造った数ある三尺阿弥陀如来立像の中で、端正さの際立った
  作品だそうだ。1203年制作。

  僧形八幡神像(⑥)は、展示彫像の中で唯一の国宝。図録解説に
  「生気みなぎる相貌には東大寺再生に向けた快慶の並々ならぬ決意
  が感じられる」とある。八幡神像は基本的には画像で継承されてきた
  歴史があるそうだ。彫像として造立されたことは画期的なことのようだ。
  色鮮やかな彩色が印象に残り、生きているように映る。
  
③阿弥陀如来立像(裸形) ④四天王 広目天立像
(兵庫・浄土寺)  (和歌山・金剛峯寺) 
    
⑤阿弥陀如来立像  ⑥僧形八幡神像 
(奈良・東大寺) (奈良・東大寺)

第3章 東国へ進出

  かつて東国に伝来した確証ある作品は、広島・耕三寺の阿弥陀如来坐像
  (⑦)と、栃木・真教寺の阿弥陀如来立像の二躯のみ。広島・耕三寺像は
  静岡・伊豆山神社旧蔵で1201年の制作。真教寺像は12~13世紀
  制作。
  静岡や栃木の像と言えば、運慶が北条時政や足利義兼の発願を受け、
  制作した像は有名。
 
⑦阿弥陀如来坐像   ⑧阿弥陀如来立像
(広島・耕三寺)  (栃木・真教寺)  

第4章 勧進のかたち ー結縁合力による造像ー

  京都・遣迎院の阿弥陀如来立像(⑨)の像内には1万二千名もの人々
  の名前を記した結縁交名(けちえんきょうみょう)が納められていたとの
  こと。1194年頃制作。
  お寺の名前の通り、発遣来迎(はっけんらいごう)の二尊として、発遣の
  釈迦如来と来迎の阿弥陀如来とで一具となっている。嵯峨野 二尊院の
  ご本尊も同じ。

  大阪・八葉蓮華寺の阿弥陀如来立像(⑩)は、快慶初期の作風である
  単純、明快な着衣の襞の彫りとなっているとのこと。まん丸の顔が印象的。
  12~13世紀制作。

  快慶自身阿弥陀信仰の強い人だけに、結縁合力(けちえんごうりき)
  による造像は快慶が望むところであったろうと想像する。

⑨阿弥陀如来立像 ⑩阿弥陀如来立像
(京都・遣迎院) (大阪・八葉蓮華寺)

第5章 御願を担う ー朝廷・門跡寺院の造像ー

  重源が亡くなった後、快慶は朝廷や門跡寺院の造像に深く関わって行く
  ことになったようだ。国家の災厄を除くための像を造立することになる。
  京都・醍醐寺の不動明王坐像(⑪)や京都・随心院の金剛薩埵坐像
  (⑫)はいずれも、密教に出て来る尊像。

  不動明王は、両眼を見開く大師様であり、東寺講堂五大明王の
  不動明王と同じ造形となっている。金剛薩埵は曼荼羅で重要な役割を
  担う菩薩である。制作年は不動明王坐像が1203年、金剛薩埵像が
  13世紀。

⑪不動明王坐像      ⑫金剛薩埵坐像
(京都・醍醐寺)   (京都・随心院)

第6章 霊像の再生 ー長谷寺本尊再興ー

  1219年焼失した長谷寺本尊の十一面観音像再興に、快慶が大仏師
  として抜てきされた。快慶は仏師の持戒を守り、造仏作法にのっとって
  如法(にょほう)に造立したと言う。
  快慶が仏教の教義を守る、霊像を造立するに相応しい仏師と認められた
  ことを物語るように思える。

  京都・正壽院の不動明王坐像(⑬)、アメリカ・キンベル美術館の釈迦如来
  立像(⑭)はそのような背景で造立された像と理解した。 不動明王坐像は
  12~13世紀、釈迦如来立像は13世紀の制作。

⑬不動明王坐像    ⑭釈迦如来立像
(京都 正壽院)(アメリカ キンベル美術館)

第7章 安阿弥様の追求 

  運慶と快慶の違いは何かを考えるときに、快慶には「安阿弥様
  (あんなみよう)」と言う言葉が浮かぶ。運慶が年齢と共に作風が
  変化して行くのに対し、快慶は生涯、自分のスタイルを追求した人
  のように思える。

  平安時代に定朝の「定朝様」が仏の本様となったように、「安阿弥様」
  が一つのモデルとなったことは間違いない。

  「安阿弥様」について、清泉女子大学の山本勉教授が30年前に論文で
  定義した。「快慶が創始した阿弥陀如来の三尺立像ないし同規模の如来
  立像の形式の呼称」。

  山本教授は、安阿弥様阿弥陀如来立像の3形式として、衣の重なる形を
  分類している。初期の作品に見られる第一形式は、衣の重なりが腹前で
  V字になっている。奈良・西方寺像(⑮)やな奈良・安養寺像(⑯)の例。

  次いで、第二形式は右肩を覆う衣の下の方を引き出し、たるませ、裏を
  見せる形。滋賀・圓常寺像(⑰)の例。

  最後に、第三形式は、第二形式にプラスして、左襟部分に下の衣が
  引き出され掛かっている形。奈良・光林寺像(⑱)

  なお、制作年は西方寺像、安養寺像が12~13世紀、圓常寺像が
  13世紀、光林寺像が1221年となっている。

  これからは、快慶の三尺阿弥陀像を拝観する際には、衣の重なりにも
  注目しようと思いを新たにした。
阿弥陀如来立像
⑮        ⑯
(奈良・西方寺) (奈良・安養寺)

 ⑰        ⑱
(滋賀・圓常寺) (奈良・光林寺)

☆「なら仏像館」にて
今年、国宝に指定された 大阪、河内長野市・金剛寺 降三世明王坐像に
お会いした。
この降三世明王坐像は、快慶の高弟、行快の作とされる。快慶展を観覧し、
その後に、お目にかかれるとは有難い。大きさ、彩色、忿怒の表情は迫力
満点。

新国宝  降三世明王坐像 
(大阪 金剛寺)

☆宇治平等院の近辺を散策 
奈良を後にして、宇治で途中下車した。平等院鳳凰堂を眺めたいと思った。
残念ながら閉館時間となり、境内に入ることはできなかった。宇治川の堤防
から木立の隙間から眺めた。宇治川沿いを散歩した。
平等院参道の入り口    宇治川の堤防から見える鳳凰堂

宇治川        源氏物語 宇治十帖

2日目の旅程をすべて終え、京都の宿泊ホテルへ向かった。




2017年5月20日土曜日

京都の古刹巡り②~浄瑠璃寺、岩船寺~


5月11日(木)朝早く京都のホテルを出て、近鉄奈良駅に向かう。
奈良駅前から少し離れた所に、浄瑠璃寺行きのバス停がある。
乗車時間は20数分と短い。

1.浄瑠璃寺
  山門を抜け、境内に入ると、正面は池。右手に本堂、左手に三重塔
  が見える。山門が境内の北方にあり、本堂は西側、三重塔は東側に
  位置する。
  
  浄瑠璃寺の本尊は、創建時は薬師如来であり、現在は九体の阿弥陀
  如来となっている。寺名が示す通り、浄瑠璃世界の薬師如来を祀る寺で
  あったことが分かる。
  創建は1047年、宇治の平等院鳳凰堂ができる5年前になる。現在の
  宗派は奈良西大寺を総本山とする真言律宗。
浄瑠璃寺地域の解説板    浄瑠璃寺境内の伽藍配置

山門            池と本堂

本堂の裏廊下

  先ずは、本堂(九体阿弥陀堂)をお参りする。本堂の背面にある廊下を
  通り、南側の入口へ回りこみ、堂内へ入る。中では大勢の人が坐って、
  ご本尊と対面しながら、ご住職の話に耳を傾けている。どうやら、広島
  から団体で参拝に来られた方々のようだ。端に座り、一緒に拝聴した。
  入って来た南の入口を指して、そこから200メートル先は奈良県と
  言われた。行政上は京都府であっても、歴史的、地理的には奈良県の
  エリアと思われる。
 【本堂の諸尊像】
  堂内安置の諸尊像はすべて、国宝もしくは重文。入って直ぐ眼にする
  のは四天王の持国天(前)と増長天(後)(①)。広目天は東博、多聞天は
  京博に寄託されている。四天王が4体揃っていないのはちょっと寂しい。
  中央には阿弥陀如来中尊像が鎮座し、左右には中尊に比し小ぶりの
  阿弥陀如来が4体ずつ並んでいる(③)。 また、中尊像の左右には、
  吉祥天女像(②)と子安地蔵菩薩像(四)が立っている。 

  両尊像とも福徳を与えてくれる有難い仏様。一番の奥には不動三尊像
  が並んでいる。
(浄瑠璃寺発行の冊子から)
①国宝 持国天・増長天 ②重文 秘仏・吉祥天女像

③国宝 九体阿弥陀仏

④重文 子安地蔵菩薩像 ⑤重文 不動明王三尊像

  ご住職の法話が面白く、皆さん熱心に耳を傾けていた。往生の仕方は、
  生前の信心と善行によって、上の上から下の下の9通りのランクあると
  言う。9通りに合わせて、阿弥陀さまが9体祀られている。ご自分はどの
  ランクだと思いますかとの質問にどっと笑い声が起こる。

  また、不動明王三尊像ついての紹介があった。 日頃の生活を振り返って、
  少し智慧が足りないと思われる方は手前の制多迦童子を、慈悲が足りない
  と思われる方は奥の矜羯羅童子を拝んでください。

  本堂をお参りした後は、境内庭園をぐるりと回った。本堂の反対側には
  薬師如来を祀る三重塔がある。三重塔から眺める本堂の景色は正に
  西方極楽浄土のイメージ。

国宝 三重塔       国宝 本堂(九体阿弥陀堂)

当尾地域の解説

2.岩船寺
  浄瑠璃寺からコミュニティバスに乗り、10分弱で岩船寺に到着。山門を
  通り、境内に入ると、石塔、石仏が目に付く。受付で渡されたリーフレット
  によると、岩船寺縁起に登場する人物が凄い。聖武天皇が行基に命じて
  阿弥陀堂を建立したことが起源。
  
  その後、弘法大師と甥の智泉が灌頂堂を建立、更には嵯峨天皇が智泉
  に勅命で、皇孫誕生祈願をさせたところ、皇子(仁明天皇)が誕生した。
  そこで、嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が堂塔伽藍を整備し、寺号が岩船寺と
  なったとある。

  本堂に入る前に、境内の石塔、石仏を眺めながら歩いた。鎌倉時代に造立
  されたとある。
岩船寺の境内図       岩船寺山門

重文 五輪石塔   厄除け地蔵菩薩

重文 石室不動明王立像       本堂

  本堂に入ると中尊の阿弥陀如来像の大きさに驚いた。ご住職の解説を
  お聴きしながら、拝観した。像高3メートル、ケヤキの一木造り。胎内の
  墨書銘で造立年が946年が判明している。ご住職は、宇治平等院鳳凰堂
  の阿弥陀如来より107年早くにできていることを強調されていた。

  お顔立ちも、良く似ているように見えた。しかも、これだけの大きな像が
  一木造りと聞いて、更に感心した。周りを囲む四天王は鎌倉時代の作。
  多聞天像は、東京の三井記念美術館「西大寺展」にご出張中と伺った。

本尊 阿弥陀如来坐像

  また、堂内には、たくさんの寺宝が安置されている。ぜひ、拝観したいと
  思っていた重文の普賢菩薩騎象像も、東京での西大寺展に出陳されており、
  お会いすることができなかった。ぜひ、三井記念美術館でお目にかかり
  たい。
  
  ご住職の話によると、本堂は国の補助に頼らないで、寄付で再建された
  そうだ。入母屋造り本瓦葺本堂とすることができ、鉄筋コンクリートの建物
  (収蔵庫か?)にならなくて良かったと喜ばれていた。

  本堂のお参りを済ませ、再び、境内をぐるりと散策した。高低差があり、
  程よい運動にもなる。

重文 十三重石塔   重文 三重塔

歓喜天堂        歓喜天の解説板

重文 白山神社本殿  春日神社社殿


  境内と隣接するように、神社の社殿がある。白山神社と春日神社が
  並んで建っている。頂いたリーフレットによると、白山神社は749年、
  岩船寺伽藍守護のために建立されたとある。正に神仏習合。
  
  岩船寺の拝観を済ませ、再びコミュニティバスに乗り、浄瑠璃寺バス停
  に行き、バスを乗り換えて近鉄奈良駅へ戻った。午後からは「快慶展」
  を堪能する。