2017年11月14日火曜日

東京国立博物館『運慶』展を観覧‼


東京国立博物館で開催の興福寺中金堂再建記念特別展『運慶』を
3度観覧した。1回目は個人で、2回目は荻窪東館・仏像サロンの
皆さんと、3回目は西荻窪のメンバーとご一緒した。

今年は、仏像ファンにとって必見の、大きな特別展が2つあった。
一つは、奈良博での『快慶』展。そして、東博の『運慶』展。
快慶展を観てのコメントは5月22日のブログにアップした。

快慶がほとけの様式美を追求した仏師なら、運慶は個性的で、リアル
な人間味溢れるほとけを追求した仏師のように思える。いわば、仏師
の枠をはみ出した前衛芸術家の側面がある。

運慶研究の第一人者である、清泉女子大学教授の山本勉教授によると
運慶仏は目下13件31体とされる。その中の22体が出展されて
いる。

今回の運慶展で特に印象に残ったことは・・・
1.奈良・円成寺、東京・真如苑、栃木・光得寺の大日如来坐像を
  順番に観覧できたこと。(画像①、②)
 
  先ず、運慶が一番若い時の作とされる、奈良・円成寺の大日如来坐像を
  真横から観た。やや後ろに傾斜気味に背筋を伸ばした姿勢が若々しい
  印象を持った。東京藝大の藤曲隆哉氏の研究によると、約4度後方へ
  傾けて像の高さを下げているとのことだ。そのような計算があったとは
  驚く。

  また、お顔の表情は年代を追うごとに笑顔になって行くように見える。
  像高は98.8㎝→61.6㎝→32.1㎝と徐々に小ぶりになっており、
  大きさに合わせて表情を変えているのだろうか。
  
  東博の出品目録では、真如苑像、光得寺像に運慶作の表示が無い。
  運慶展に出展されているにも関わらず、運慶作の認定をされないとは
  少し不思議に思う。また同時に、認定の難しさも理解できる。 
①大日如来坐像3躯    ②大日如来像の尊顔


2.静岡・願成就院と神奈川・浄楽寺の毘沙門天立像を比較しながら
  観覧できたこと。(画像③)
  
  館内での仏像配置に工夫がなされている。願成就院像の前に立つと、
  左手遠方に浄楽寺像が見える。敢えて対比できるようにされたと
  感じた。

  個人的には、願成就院像の方が、気に入っている。堂々とした風格
  は、東国武士のイメージにぴったりとしている。両腕の高さを同じに
  し、前に突き出していることで懐が深い感じがする。

  浄楽寺像の方が人間的な動きをしており、好きだと言う人もいる。
  好みの問題かもしれない。
③毘沙門天立像2躯

3.興福寺の無著菩薩・世親菩薩立像、東大寺の重源上人坐像の背面を
  眺められた。(画像④)

  展覧会の良さは、360度で観覧できること。今回特に、印象に残った
  のは高僧の背中。正面から拝観する表情は、老いた姿であり、いわば
  枯れた姿。(世親菩薩は枯れずに、エネルギッシュな印象)

  ところが、背中の印象は肉づきが良く、決して老人の背中でない。仏様
  として礼拝されるには、堂々とした大きさが求められるのかもしれない。
  運慶作に共通したボリューム感だろうか。

  重源上人の場合、特に正面と背面からの印象が全く違うように感じた。
④無著・世親像の背中と重源上人坐像

4.興福寺南円堂安置の四天王立像は本来、北円堂の像だと言う説が有力
  となっている。そこで、本展覧会では、北円堂の堂内を再現するように、
  無着・世親菩薩立像を囲むように現・南円堂四天王像が配置されている。
  興福寺では拝観することのことのできない諸像配置を、体感することが
  できる。 (画像⑤、⑥、⑦)
  
  興福寺北円堂造立時の記録である近衛家実の日記「猪熊関白記」に、
  「仏師は法印運慶」と言う記述があり、運慶作の確証となっている。

  また、北円堂本尊弥勒如来坐像の台座に、仏師名を記した銘記があり、
  本尊像、両脇侍像、四天王像、無著・世親像の制作担当者が判明した。

  南円堂本尊は康慶作の不空羂索観音立像。この本像を守護する四天王像
  は中金堂(現仮講堂)に安置の像らしい。この四天王像も出展している。 
  四天王像比較や、本来の北円堂再現は本展覧会の見どころの一つと
  なっている。
⑤興福寺南円堂本尊と四天王像  ⑥興福寺南円堂 本来四天王像か

⑦興福寺北円堂 本来四天王像か  ⑧北円堂 本来四天王像の本来配置か

  南円堂四天王像はカツラ材であり、北円堂本尊の弥勒如来、無著・世親像
  も同じカツラ材であり、同じ堂宇の像と裏づける要素の一つとなっている。
  (南円堂本尊の不空羂索観音坐像はヒノキ材)
 
  運慶展を特集した番組で、無著像と南円堂多聞天像をCTスキャンした時の
  映像が放映された。同じようにカツラの心木を使って寄木造りにしている
  ことも共通しており、益々運慶作となる可能性が高くなっていた。
  
  また、北円堂弥勒如来台座の銘記と、興福寺曼荼羅図に描かれた北円堂
  四天王像の像容と照らし合わせると画像⑧の通りとなる。⑦より⑧の方
  が、安定感があるように見える。
  
  即ち、南円堂で広目天となっている像→北円堂で持国天(湛慶担当)と
  なる。以下同様に、持国天→増長天(康運担当)、増長天→広目天
  (康弁担当)、多聞天→多聞天(康勝担当)となる。

  この四天王像を運慶仏とすると、山本教授認定の運慶仏は13件35体
  となる。

5.運慶最晩年の作、神奈川・光明院 大威徳明王坐像を間近に観ることが
  できた。(画像⑨)

  20㎝ちょっとの小像。大威徳明王坐像は、運慶個人が制作した仏像。
  運慶工房で制作された像の場合、運慶がどこまで関わったかは定かで
  ない。この小像なら、運慶が一人の作と思われるから殊更有難みが
  ある。

  運慶の生年を1150年頃とすれば、本像は66歳頃の作となり、
  円成寺の大日如来像を制作されてからちょうど40年後の作になる。

  ある学芸員の方が本像についてコメントしていた。「実に丁寧でノミの
  入れ方も巧み。特に下に付いていたはずの水牛との接着面のアーチ型の
  ラインを見るとしびれちゃいます。」専門家は目の付け所が違う。
⑨神奈川・光明院 大威徳明王坐像

6.湛慶作の京都・高山寺 善妙神立像に初めて拝見した。個人的に所有
  したい気持ちにさせる美しい女神だ。高山寺の山中に籠って、修行を
  していた明恵上人にとって、善妙神立像は祈りの対象であり、心の友、
  良き理解者あったと想像する。 (画像⑩)
⑩京都・高山寺 善妙神立像

この他、興福寺 仏頭、金剛峯寺 八大童子像、瀧山寺 聖観音などの感想
は別の機会にまとめたい。

明治時代の中頃までは、運慶作と考えられていたのは東大寺南大門の
仁王像だけだったと言う。文化財と言う概念ができたのも、明治30年の
「古社寺保存法」制定から。

運慶研究が進み、運慶作とされる仏像が年を追うごとに発見されている。
これから、どんな発見があるのか、楽しみが尽きない。
また、一方で運慶作と思われた像が、運慶作でないと明らかにされる
ことも起こる。いずれにしても、運慶から目が離せない。運慶は仏像ファン
にとって、生涯注目の的と言える。




2017年11月11日土曜日

雑司ヶ谷鬼子母神堂を参拝!


前日までの天気予報が嘘のように晴れ上がった日となった。よほど心掛けの
良い方が多いと思われる。地下鉄副都心線 雑司が谷駅10時に待ち合わせた。
駅ホームから地上出口まで距離も、高低差もあり、どこで待ち合わせたらよいか
多少戸惑った。10時前には12名が何とか揃った。

目指すは、鬼子母神堂。正式な漢字は「鬼」の頭に点が無い。角の無い鬼。
昨年7月に国の重要文化財に指定された建造物を眺めることが目的の一つ。
また、鬼子母神という神様も興味深い存在と言える。

雑司が谷駅から参道へ向かう   参道の入口重要文化財の表示

参道入口には大きなケヤキの木が、まるで参拝客を向かい入れるように立つ。
入口案内板には、国の重要文化財 鬼子母神堂始め、都や区の文化財も掲示
されていた。
鬼子母神大門ケヤキ    大門ケヤキ並木の解説板

鬼子母神大門ケヤキ並木は東京都指定天然記念物となっている。毎年10月に
行われるお会式(おえしき)には万灯行列が周辺を練り歩くようだ。今回ご参加
のお一人から「見応えのあるお会式」と推奨された。 

境内に立つ大公孫樹    樹齢600年公孫樹の大きさ

境内にも巨木が立つ。樹齢600年、高さ30メートルもある公孫樹。樹木が
多いと安らぎを一層醸し出す。境内は七五三のお参りをされる親子連れ
で賑わう。我々も七五三(七十代、五十代、三十代)が揃っていると軽口を
叩いた。

先ずは、本堂をお参りする。内陣は七五三の参拝者が多く、中に入ることは
控えた。ザクロが描かれた絵馬が多く奉納されている。ザクロは鬼子母神が
手に持つ吉祥果。ザクロは豊饒、多産のシンボルとされる。

鬼子母神堂           鬼子母神堂 内陣

鬼子母神堂を参拝する

雑司ヶ谷鬼子母神堂を重要文化財に指定された時の指定書がそのまま
石碑となっている。指定書を石碑にしてしまうとは驚く。そこまで必要か?

また、鬼子母神堂建立の経緯や、お堂の構成などは解説板を読むと、よく
分かる。現在の文京区目白台で掘り出された鬼子母神像を安置するために
雑司が谷の地にお堂が建立されたとのこと。

鬼子母神堂は、手前から「拝殿」「相の間(あいのま)」「本殿」の
3つの建物で構成されている。権現造り(ごんげんづくり)と言う。
重要文化財指定書の石碑    雑司ヶ谷鬼子母神堂解説板

見上げると屋根下に人物が見える。屋根を支える力持ち(力神)か?

 左手斜めから眺めるお堂      屋根下には人物が?
また、お堂の反対側に回ると、「南無妙見大菩薩」の幟が立っている。
鳥居を構えた小さな社があり、妙見菩薩を祀っている。妙見菩薩とは北斗七星を
神格化したもの。鬼子母神堂の境内には、神社、不動堂、大黒天堂と神仏習合
となっている。
 鬼子母神堂裏側には妙見大菩薩

参拝を済ませ、暫く境内を散策した後は、本堂を背に記念撮影。
次に向かう。雑司が谷案内処に立ち寄り、昼食にお勧めのお店を尋ねた。
鬼子母神堂前で記念撮影     参拝を終え、次へ向かう

雑司ヶ谷霊園を尋ねる前に昼食とした方が、お店も空いているだろうと
考えた。ご推薦の店「割烹 酉松」に到着。開店15分前にも関わらず、
直ぐに、着席できた。

味も、値段も、サービスも良く、大満足の昼食となった。
雑司が谷案内処お勧めの「酉松」で舌鼓

昼食後、雑司ヶ谷霊園で著名人のお墓をお参りした。
今回は尊敬するお二人。夏目漱石と金田一京助。

金田一京助のお墓には木が植えてあった。何の木だろうか?
国語の神様だから、菅原道真と同じ梅の木だろうと答えた。
夏目漱石の墓

金田一京助の墓      同左 墓誌
今日も一日、楽しく、こころ豊かに過ごすことができた。(合掌)



2017年10月20日金曜日

朝比奈さん制作の作品展示と解説!


10月の定例会には朝比奈さんが10カ月ぶり参加された。その間に制作された
作品を展示し、現在の制作活動をご発表頂いた。参加者は荻窪からの3名を加え
23名。

前半の1時間は朝比奈さんの制作作品の解説をお聴きし、後半は運慶展の
見どころを、2度観覧しての感想を交えながら解説した。
作品制作を発表される朝比奈さん    拝聴する参加者 

今回、朝比奈さんがご持参された仏像は3体(①)。作品の詳細解説は②~④
の通り。阿弥陀如来坐像は、当初の予定を変更し、鎌倉期の特徴から平安末期
の定朝様にされたとのこと。中尊となるメインの像だけに、時代考証をしないと
全体のバランスが崩れてしまうようだ。

小僧時計制作のきっかけは毎月お寺で開催される住職法話の長さ。予定時間を
いつも超過するのは部屋に時計がないため。作品を贈呈したところ、大喜び
されたそうだ。小僧の大笑いと、ご住職の笑顔が良く似ているのも可笑しい。
①展示の作品       ②向かって左端の小僧時計

③中央の阿弥陀如来坐像   ④右端の観音菩薩坐像

今まで制作された作品を一覧にして紹介された。随分造られたものだと感心。
二体の不動明王は後から制作した作品が 数段出来栄えは良いそうだ。しかし、
愛着があるのは最初作品の方。その時の思いの違いがあるようだ。(⑤)
⑤儀軌に基づく作品      ⑥癒し系の仏像

また、ご親戚や、友人が病気になった時にお見舞いにと彫られたお地蔵さんの話
など一体一体に思いでが詰まっている。大変感心しながらお聴きし、仏像は形で
あり、思いが詰まった作品と言える。(⑥)

⑦木彫刻作品      ⑧制作中、企画中作品

和裁で長年使用したカツラ材の台が見事に時計に変身した(⑦の右上)。この話
も、心温まるエピソードと言える。朝比奈さん、菩薩の利他行を実践中です。

休憩を挟んで、後半は運慶展の見どころについて解説した。仏像の学習をして
いる目的の一つに、運慶作品を良く知ることもある。

運慶作品31体のうち、今回出展されている運慶作は22体。しかし、専門家が
運慶作とされる像も、東博では運慶作と認定していない像もあり、少し複雑だ。

そもそも運慶作と言うのはどのように決められているのか。運慶研究の第一人者
である清泉女子大学教授の山本勉先生は運慶度を4区分されている。この区分は
広く、様々なところで使われている。山本先生は4番目の区分まで入れて31体
としている。
⑨運慶作は22躯出展      ⑩運慶作認定の基準

「運慶前の時代(⑪)」、「運慶の時代」、「運慶後の時代」(⑫)を、系図を
見てイメージした。運慶と同時代の人がどのような繋がりを持ったかを調べる
ことは大変面白い。
⑪定朝正系三派の系     ⑫慶派の系図

東博での観覧がより一層楽しいものとなることを願っている。
定例会終了後、朝比奈さんを囲み10数名で昼食をご一緒した。


2017年9月21日木曜日

鎌倉の光触寺(こうそくじ)と浄妙寺を参拝!


朝8時40分、JR新宿駅構内、スーパー成城石井前に集合し、鎌倉へ
向かった。
参加者は14名。目指すは金沢街道沿いにある光触寺と浄妙寺の2ヵ寺。
両寺院とも、運慶との繋がり感じる。
 新宿駅ホームで新宿湘南ラインを待つ

鎌倉駅東口のバス乗り場5番で乗車。降車バス停が十二所(じゅうにそ)。
バス停から徒歩2分で光触寺に着く。山門(①)をくぐると、参道の両側に
数多くの墓石が並ぶ。
境内に掲示されたお寺の縁起(②)を読む。石造の大きな一遍上人像
(③)が目に入る。時宗の開祖・一遍上人が開基となっている。

塩嘗地蔵(しおなめじぞう)の伝説があるお地蔵さんも本堂の前に並んで
いた(④)。頬焼阿弥陀如来の拝観を予約しており、到着した旨をお伝えする
と、若いお坊さんが本堂(⑤)の扉を開けて、堂内にご案内された。
①光触寺の山門        ②光触寺縁起

③一遍上人の像        ④塩嘗地蔵

本堂内に用意されたパイプ椅子に着席するよう勧められ、ご本尊を挟むように、
左右分かれて席に着いた。ご住職が来られ、頬焼阿弥陀如来(⑥)について
ご説明された。
三代将軍・源実朝の招きで大仏師運慶が来られることを知った町局
(まちのつぼね)が阿弥陀如来像造立を発願し、運慶に制作を依頼したそうだ。
頬焼と言われる理由は②縁起の通り。

ご住職の解説によると造像は建保(けんぽう)三年、1215年とのこと。
現在、造像の年号が判明している運慶最晩年の作は金沢文庫の称名寺
光明院・大威徳明王坐像。造像年が建保四年(1216)と光触寺像より
1年後になる。

称名寺像は、学術的に運慶作と確定している。一方、光触寺像は確定は
していない。しかし美術史家も、運慶作と特定はできないものの慶派による
造像に間違いないであろうとしている。

光触寺の阿弥陀三尊像は、国の重要文化財(旧国宝)に指定されている。
3年程前、鎌倉国宝館での特別展に出陳された。その時、文化庁から頬焼
(左の頬)と右肩の一部に傷みがあることが指摘され、修復することとなった。
ご住職から高額な修復費用をお聞きし、びっくりした。同時に、文化財保存の
大変さを改めて感じた。

阿弥陀三尊像を間近で拝観させて頂いた。薄暗いため、頬焼の状況は
残念ながら確認できなかった。しかし、高額修復費をお聞きし、有難みが
一層増したように思う。
(ネットでの写真)
⑤本堂        ⑥頬焼阿弥陀如来と脇侍像

本堂に祀られている神仏についてご説明があった。驚いたことに堂内に熊野
神社が設えてあった。一遍上人、悟りの場所が紀州熊野神社であったことが
理由とのこと。文字通り神仏習合と言える。

更には、大きな仏頭もご本尊裏の棚に安置されていた。この仏頭は今は廃寺
となった実朝創建、大慈寺本尊の阿弥陀如来像とのこと。大きさから想像して
丈六仏を超える像であったろうと思われる。

暫く、堂内を拝観しながら、ご住職と歓談させて頂いた。大変、ゆったりとした
時間を過ごすことができた。

拝観後、本堂前で記念撮影(⑦)。若いお坊さんにシャッターをお願いした。
次に向かうのは浄妙寺。鎌倉駅方面に向かって歩き出した(⑧)。
⑦本堂を背に記念撮影   ⑧徒歩で浄妙寺へ向かう

浄妙寺は縁起(⑨)にあるように、鎌倉五山第五位の格式高い禅宗寺院。
山門(⑩)を抜けると、銅板葺きの大きな屋根を持つ本堂(⑪)がどーんと
建つ。浄妙寺の開基は足利義兼。足利氏の二代目であり、足利尊氏の
先祖となる(⑬)。

9月26日から開催される東博「運慶展」に出展の真如苑・大日如来像、
足利市光得寺・大日如来像のいずれも足利義兼創建の樺崎寺(かばさきじ)
所縁の仏像。義兼発願、運慶制作の像であることは間違いない。
樺崎寺は足利市に建立され、今は廃寺。

また、尊氏の父親・貞氏の墓所(⑫)もあり、お参りした。我が母校が足利高校
だけに、足利の名がが付くと、大変身近に感じる。足利氏と頼朝の関係について
も系図(⑬)を掲載した。

また、開山の退耕行勇(たいこうぎょうゆう)は、鎌倉時代の南都復興に尽力
した僧。初代勧進僧が重源、二代目が栄西、三代目が退耕行勇。運慶と同時代
の人であり、共に南都復興に貢献された人物と言える。
⑨浄妙寺縁起         ⑩浄妙寺山門

⑪浄妙寺本堂       ⑫足利貞氏の墓所

⑬足利氏系図

浄妙寺参拝を終え、鎌倉駅へのバスに乗った。駅近くのお店に入り、歓談昼食と
なった。今日も、楽しく心穏やかなひと時を過ごすことができた。
感謝(合掌)。