神仏習合の所産に「神宮寺(じんぐうじ)」がある。仏教が伝来した後、
古来からの神祇(しんぎ)信仰とどのような関係性を持って行ったのか。
仏教は外来宗教として6世紀半ばに戸惑いを持って迎えられた。神祇信仰
(神道)との関係は、対立→併存→習合へと変容して行った。神仏習合は
千年以上を経て明治の神仏分離に遭遇し、現在に至っている。
古代においては、祭政一致であり、祭祀を司ることは、政(まつりごと)
を行うことである。祭祀は為政者にとって権力の源泉と言える。(近代
においても、国家神道により天皇中心の祭政一致体制があった。)
神宮寺とは「神威の衰えた神を救い護るために、神社の傍らにできる寺院」
「神社の境内やその近辺に、神社に併設されるようにして建てられた寺院」
などと言われる。別当寺、宮寺(みやでら)などとも呼ばれる。
神宮寺が創建されるに至った背景にどのようなことがあったのか、神仏習合
の展開を理解する上で重要な意味を持つ。先ずは、初期神宮寺の具体的事例
や創建での特徴を『八幡神と神仏習合』[逵日出典(つじひでのり)著
講談社現代新書]から引用させて頂く。
1.初期神宮寺の事例
初期神宮寺は①の通り、8世紀・奈良時代以降の創建がほとんどであり、
大半が地方に出現している。
①初期神宮寺事例一覧表
2.初期神宮寺創建の特徴
逵日出典氏によると初期神宮寺創建の特徴は②の通り、4つあると言う。
4つの中で、キーワードとなるのは「神身離脱(しんじんりだつ)思想」
「地方の豪族層」「山岳修行の経験者」。特に「神身離脱」に注目して
考えてみたい。
②初期神宮寺創建の特徴
3.「神身離脱」とはどういうことか?
①表8番目に掲載、多度神宮寺について『多度神宮寺伽藍縁起幷資財帳』
に次のような記述がある。
「我れは多度の神なり。吾れ久劫を経て、重き罪業をなし、神道の報い
を受く。いま冀(こいねがわく)ば永く神の身を離れんがために、三宝
(仏教)に帰依せんと欲す。」
この文の解説は以下の通り。<義江彰夫著「神仏習合」(岩波新書)>
「長きにわたってこの地方を治めてきた結果、いまや本来の神道から
はずれて重い罪業に苦しめられ、神道の報いを受けるところにいたっ
てしまった。いまこの桎梏から脱出したいが、そのためには永久に
神の身を離れることが必要であり、仏教に帰依したい。」
神宮寺創建は「神身離脱」によって、神が仏に救済を求めて来た構図と
なっている。その推進を地方豪族と山岳修行者である遊行僧が担うこと
となった。この背景には、律令国家の神社編成のゆきづまりがあった
ようだ。なぜ「神身離脱」が起こったのかは次回整理したい。
<続く>
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