1.宮曼荼羅(みやまんだら)
神社や寺院の風景とそこに祀られている神仏を斜め上から描いた絵画
がある。「宮曼荼羅」(①)と呼ばれている。①左から「山王宮曼荼羅」
「春日宮曼荼羅」、「熊野曼荼羅」。宮曼荼羅の絵画制作は平安時代に
始まり、遺品は鎌倉時代以降のものが多いようだ。
絵画には風景に合わせ神仏が描かれている。本地垂迹(ほんじすいじゃく)
と言う思想により、本地仏が垂迹神となって、この世に現れたとされた。
山王宮曼荼羅の上部には、最上段に本地の仏・菩薩を、その下に垂迹の
神々を横一列に描く。正に神仏習合の世界となっている。(②)
2.参詣曼荼羅(さんけいまんだら)
「宮曼荼羅」が更に大衆化したものに「参詣曼荼羅」と呼ばれる絵画がある。
「那智参詣曼荼羅」「伊勢参詣曼荼羅」「富士参詣曼荼羅」「立山曼荼羅」
「高野山参詣曼荼羅」などがある。(③、④)
日本各地の有名な神社や寺院、あるいは霊場などへの参詣を呼びかけ、寄付
を募るために作成されたそうだ。いわば参詣案内ようなものだ。
時期的には、16世紀から17世紀、中世末期から近世の初め頃の時代と言う。
ここまで来ると、寺社への参詣もイベント化し、一般大衆の参加も多くなる
のは必然である。「熊野比丘尼(くまのびくに)」「御師(おし、おんし)」
「高野聖(こうやひじり)」と呼ばれる人達が参詣者を募るのに一役買った。
参詣曼荼羅の絵画を使って、絵解き(えとき)をし勧誘した。
「宮曼荼羅」「参詣曼荼羅」と日本独自の変遷を遂げて来た。空海が唐から
請来した曼荼羅とは全く異なるものになった。そこで、次に、空海請来の
曼荼羅について触れておきたい。
3.空海請来の曼荼羅「両界曼荼羅」
空海が唐から請来した曼荼羅は密教法具であり、胎蔵界曼荼羅と金剛界曼荼羅
の両界曼荼羅からできている。即ち、世界の成り立ちを示した胎蔵界と悟りへ
の道筋を示した金剛界の二つである。(⑤)
私のイメージする胎蔵界曼荼羅は「万物が共生し、山懐に抱かれたような感覚
になる世界」であり、金剛界曼荼羅は「閉ざされた門をこじ開けながら、前進
して行く様を表現している」ように感じられる。胎蔵界が慈悲なら、金剛界は
智慧を表している。個人的には胎蔵界曼荼羅に惹かれる。
曼荼羅の世界と言った場合は胎蔵界曼荼羅のことではないかと思える。万物
を受け入れる姿勢こそ曼荼羅に相応しい。神仏習合も当然の帰結と言える。
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