2021年8月26日木曜日

<神仏習合❼> 救いの仏 聖林寺 十一面観音

今回は、奈良県桜井市の聖林寺・十一面観音像にスポットを当てる。
奈良時代の神仏習合で大神神社(おおみわじんじゃ)の神宮寺に祀ら
れた。そして、明治時代の神仏分離令廃仏毀釈の嵐に見舞われた。
その災難を乗り越えて、優美な姿を残しているのは正に僥倖としか
言いようがない。

東京国立博物館で「聖林寺十一面観音-三輪山信仰のみほとけ」(①)
が、現在開催されている。NHKの歴史秘話ヒストリアと言う番組でも
取り上げられ、「1300年奇跡のリレー国宝聖林寺十一面観音」(②)
が放映された。残念ながら、この番組は終了となってしまい、好きな
番組が一つ減った。

①東京国立博物館特別展    ②NHK歴史秘話ヒストリア

1.大神神社の神宮寺・大御輪寺(だいごりんじ)に祀られた理由は?
  「歴史秘話ヒストリア」で紹介されていた。

  奈良時代は、自然災害、疫病、戦乱が続き、時の神祇伯(じんぎはく)
  文室浄三(ふんやのきよみ、じょうさん)は、十一面観音像を造立する
  ことを決定した。神祇伯とは神祇官の長官のことであり、神祇官とは国
  の祭祀を司る行政機関のことを言う。

  神祇伯が救いを神でなく、仏に求めたことは神仏習合の思想が浸透して
  いたことを物語る。日本書紀に大神神社大物主神を祀ることによって
  災いが収まったとの記録あり、文室浄三はこれに倣い、観音像を祀った。

  文室浄三とは天武天皇の孫、長親王(ながのしんのう)の子、智努王
  (ちぬおう)のことであり、臣籍降下により文室浄三と改名した。
  称徳天皇(孝謙天皇重祚)の後継者選びに際し、時の右大臣 吉備真備
  (きびのまきび)から推挙される程の人物である。然しながら、藤原氏
  の思惑で白壁王(天智天皇の孫)が選ばれ、光仁天皇として即位する
  こととなった。(③④)

③天智天皇系譜       ④天武天皇系譜

  十一面観音像を祀ったお堂は大神神社の神宮寺・大御輪寺であり、現在
  大直禰子神社(おおたた ねこじんじゃ)となっている。
⑤大神神社境内 案内マップ ⑥大直禰子神社(旧大御輪寺)

2.廃仏毀釈の嵐をどう乗り越えたか?
  仏像を大切に思う人が護ろうとしてくれたからこそ、今日に伝えている。
  大神神社の大御輪寺では祀ることができなくなり、安置先を近くの聖林寺
  に遷すこととなった。

  その時の覚書が「歴史秘話ヒストリア」で紹介されていた。(⑦⑧)
  『本尊十一面観世音』『脇士地蔵尊』とある。(⑧該当箇所に赤い線)
  その後、地蔵尊については、聖林寺から更に法隆寺へと遷って行った。
  (⑨)

  廃仏毀釈によって、たくさんの仏像が破壊された。その圧力にも負けず、
  よくぞ、護り抜いた頂いたと敬服する。大御輪寺、聖林寺、法隆寺の
  お坊さんに立派な方が揃っていたからこその賜物と言える。
⑦大御輪寺から聖林寺への覚書  ⑧同左覚書(部分の拡大)

⑨大御輪寺に祀られていた仏像

  そして、文化財としての価値を訴え、保護に尽力した人物がフェノロサ
  と岡倉天心(➉)である。法隆寺夢殿の救世観音を初めて目にした時の
  驚きと同じように、聖林寺の十一面観音の優美さに感動していた。

  その時、天心が書いたメモが残っている。(⑪)"tall graceful type"
  と、走り書きするとは、いかにも英語に堪能な天心らしい。この二人に
  よって、「文化財」と言う概念がもたらされることとなった。
  「神仏習合」から「神仏分離」「廃仏毀釈」へ。そして「文化財」へと
  変遷し、仏像が保護された。
➉フェノロサと天心       ⑪天心のメモ

<続く>

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