日本で一番多い神社と言えば八幡宮・八幡神社である。全国4万社以上
と言われる八幡神社の総本宮は大分県宇佐市の宇佐神宮である。(①)
社殿造営の縁起とご祭神は境内掲示板(②)に書かれている。
八幡大神(はちまんおおかみ=応神天皇)、比売大神(ひめおおかみ)、
神功皇后の「八幡三神」をご祭神に社殿が順次造営されて行った。
ご祭神の降臨と社殿造営を解説すると次の通りとなる。
1.ご祭神
神代に三神の比売大神(宗像三女神として有名)が宇佐の御許山
(おもとさん)磐座(いわくら)に降臨する。次に欽明天皇32年
(571年)に応神天皇の御心霊が現れる。比売大神が地主神として
信仰されていた地に八幡大神が現れた。
宇佐の地は宇佐氏、辛島(からしま)氏、大神(おおが)氏の信仰
が重なっている。即ち、宇佐氏は原始磐座信仰、辛島氏は新羅の神を
祀り、女性シャーマンを出す氏族、大神氏は誉田別(ほむたわけ)の
八幡信仰があり、3つの信仰がベースとなっている。
2.社殿の創建・造営(宇佐神宮のHPによる)
一之御殿(ご祭神は八幡大神)が神亀2年(725年)
二之御殿(ご祭神は比売大神)が天平元年(729年)
三之御殿(ご祭神は神功皇后)が弘仁14年(823年)と伝える。
宇佐神宮の創建は725年となる。
①宇佐神宮 ②社殿創建縁起
3.神像の誕生
もともと自然物を依り代として姿を表さなかった日本の神々が仏教
との結びつきの中で神像が生れた。その先駆的な役割を果たしたのが
との結びつきの中で神像が生れた。その先駆的な役割を果たしたのが
八幡神像。
(A)八幡神と仏教の結びつき
八幡神は720年大和朝廷による隼人服属の戦いに参加し勝利へ導く。
守護神と見なされる一方、殺戮に疲弊し、仏教に救いを求めた。
即ち、神身離脱がなされた。
仏教に帰依した証が、放生会(ほうじょうえ)を始めたことであり、
神宮寺である弥勒寺を創建したことでもある。放生会とは討たれた
隼人の霊を鎮めるための祭礼であり、生き物を放つことによって
功徳を積む仏教行事のこと。宇佐宮では蜷(にな=細長い巻貝)を
放つ。
(B)八幡神像の造立
宇佐神宮に関係の深い神社に八幡奈多宮(なだぐう)があり、宇佐
神宮の別宮とも言われる。創建は729年で八幡三神像(③)を収蔵
している。
この三神像は、宇佐宮の旧ご神体が奈多宮に移されたとの伝承がある。
僧形の八幡大神、比売大神、神功皇后の神像が並ぶ。平安期の造立で
国の重要文化財に指定されている。
③八幡奈多宮・八幡三神像
4.八幡神が国家の守護神へ
奈良時代に大仏建立に援助を行ってから、国家の守護神として敬われ
8世紀末頃には「八幡大菩薩」と呼ばれるようになった。神仏習合の
形が、より明確になったと言える。
(A)八幡宮の展開
平安遷都に伴い石清水八幡宮を建立したことや、八幡神が清和源氏
の氏神とされたことで、八幡宮が全国に広がった。
(B)国宝の八幡神像
国宝に指定された八幡神像は現在3件ある。いずれも僧形であり、
仏道に励む姿を象徴している。(画像④、⑤、⑥)
【 東寺 八幡三神像(④)】
日本最古の神像と言われている。昭和32年に御影堂の仮厨子の中
に納められていたのが発見されたとのこと。明治初年に火災焼失
した東寺八幡宮に祀られていた。
八幡神は弘仁年間(810~824)に空海が勧請したそうだ。
いわば東寺の守護神として祀られた。空海は、高野山を開く時も
地主神である狩場明神や丹生明神を祀った。空海は、神仏習合を
当初から実践されていた。
僧形八幡神像を囲む女神像の名前は分からない。
【 薬師寺 八幡三神像(⑤)】
薬師寺八幡宮は休ヶ岡(やすみがおか)八幡宮とも呼ばれている。
これは宇佐八幡から東大寺の手向山八幡宮へ向かう途中に休まれた
ことから付いた名前とのことだ。
この三神像の平安初期の寛平年間(889~899)の作とされる。
三神像は僧形八幡神、神功皇后、仲津姫命(なかつひみのみこと)。
比売大神に代り、応神天皇皇后の仲津姫命が鎮座する。
【 東大寺 僧形八幡神像(⑥)】
快慶作の像。現在、東大寺の勧進所に安置されている。明治の
廃仏毀釈以前は、手向山八幡宮のご神体だった。
⑥東大寺・僧形八幡神坐像
<続く>
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