『古寺・名刹参詣の自分流楽しみ方』をまとめ始めて、今回が4回目になる。
取り上げた古刹は「飛鳥寺・元興寺」、「薬師寺」。そして今回が「東大寺」
となる。『東大寺の歴史と寺宝』は2回に分け、第一回は歴史と華厳の教えを
中心にまとめ、第二回で寺宝の詳細をまとめることにしたい。
1.東大寺の寺名変遷と文化財
東大寺の始まりは聖武天皇が皇太子基親王(もといしんのう)の菩提を
弔うために金鐘山房(きんしょうさんぼう)を造営したことによる。
寺名も変化し、金鐘寺、金光明寺(こんこうみょうじ)、東大寺となっ
て行った。東大寺は通称名で、「金光明四天王護国之寺」が正式名との
ことだ(❶)。
文化財の寺宝は建造物8棟、美術工芸品のうち仏像彫刻14件24躯が国宝
に指定されている。国宝仏像の安置されている堂塔に軀数を表示(❷)
した。
❶東大寺の概要と文化財 ❷伽藍と国宝仏像安置数
2.聖武天皇と藤原氏との関係
藤原氏は天皇家と姻戚関係を築き、政権掌握を強固にした。聖武天皇の母
・宮子、皇后・光明子は、いずれも藤原不比等の娘(宮子、光明子は異母
姉妹)であり、藤原氏が台頭する礎となった。聖武天皇が皇族と新興勢力
の藤原氏との抗争に心を痛めたことは想像に難くない(❸)。
❸藤原氏と天皇家の関係
3.東大寺の歴史
東大寺の歴史を3つの視点で整理した。Ⅰ)史実(出来事)、Ⅱ)堂塔
Ⅲ)人物の3点である。
(Ⅰ)略年表に見る史実(出来事)
注目したことは、①聖武天皇が大仏造立を発願するに至る経緯となぜ
何度も遷都したのか。大仏造立後は、戦火による焼失と復興の歴史に
スポットを当てた。
聖武天皇は即位後、災難が続く。基親王の死去、長屋王の変、天然痘の
流行による政権中枢(藤原四兄弟)の死去、藤原広嗣の乱と立て続けの
受難である(❹)。
当時、災難は為政者の徳が足りないから起こると考えられていた。聖武
天皇はどれほど悩んだことだろうか。この難局を乗り切るために、仏の
力に頼ろうとしたことは想像できる。河内の智識寺の廬舎那仏を礼拝し、
大仏造立を発願したとされる(❹)。
それでは、聖武天皇が何度も遷都を繰り返したのはなぜだろうか(❺)。
聖武天皇が心神耗弱となり彷徨したのではないかとも言われた。しかし、
最近の研究では、唐の制度に倣い複都制(機能別の都)を念頭に、行動
したのではないかとも言われる。
外交(難波宮)、物流(恭仁京)、仏の都(紫香楽宮)を拠点に複都制
の構想があったのではないかと言う研究だ。そうであるなら、精神的に
タフな天皇像となり、イメージを一新する。いずれにしても、大仏造立
の地を求めていたことだけは確かのように思われる。
平安期以降の大きな出来事と言えば、1180年の平重衡、南都焼き討ちと、
1567年の三好三人衆と松永久秀の合戦に被災である(❻)。大半の堂塔
を焼失し、東大寺存亡の危機となった。
❻略年表(平安~江戸)
(Ⅱ)堂塔の建立と再建
主要伽藍で創建当初の建造物法華堂だけ(❼)。転害門も当初建造物。
二度の被災を免れた二月堂は修二会の最中に失火し、一度焼失している。
幸いにも直ぐに再建された。
南大門は、平重衡の南都焼き討ち後に再建され、三好三人衆と松永久秀の
合戦では運よく被災を免れた。仁王像と共に鎌倉時代の雄姿を今日に伝え
る貴重な文化財だ。大仏殿、中門、戒壇堂はいずれも江戸時代の再建。
❼主要伽藍の略年表
(Ⅲ)東大寺創建・造営・復興に携わった人々
(❾、❿、⓫掲載の彫像はすべて東大寺所蔵の像)
東大寺創建等の歴史を人物にスポットを当て、整理してみると、最初に
登場するのが、「四聖御影(ししょうのみえ)」(❽)に描かれた4人
である。即ち、発願の聖武天皇、開眼導師の菩提僊那(ぼだいせんな)、
勧進の行基、開山の良弁(ろうべん)の4人。
次いで、東大寺所蔵の彫像で見て行くと、開山の良弁は「良弁僧正坐像」
として国宝彫像になっている(❾)。鑑真和上(がんじんわじょう)は
戒壇院の創建、実忠和尚(じっちゅうかしょう)は不退の行法、修二会の
創始者として有名である。
❽東大寺創建の4人 ❾創建・造営の僧
東大寺は、空海が密教を請来する以前から、雑密(ぞうみつ)が伝わって
いた。法華堂の不空羂索観音像は明らかに密教の仏像である。遣唐使僧の
玄昉(橘諸兄のブレーン)が伝えたと言われている。
平安時代になって、桓武天皇の信任厚い最澄が奈良仏教と対立するのに
対し、空海は奈良仏教を包摂し、東大寺境内に密教寺院を創建している。
大仏殿を正面にし、参道の左手に「真言院」(❷の地図参照)として今も
残っている。そこに祀られているのが「弘法大師坐像」(❿)である。
東大寺の別当にもなったと言うから繋がりの強さを感じる。
更に、空海の孫弟子であり、醍醐寺開山の聖宝(しょうぼう)(❿)は
「三論」と「真言」を学ぶ東南院を創設した。これも空海からの法脈と
言える。今は東大寺寺務所(旧東南院)(❷地図参照)となっている。
復興の最大の功労者と言えば、重源と公慶の二人(⓫)だ。二人の彫像は
それぞれ「俊乗堂」「公慶堂」に祀られている。「重源上人坐像」は国宝
「公慶上人坐像」は重文に指定されている。
重源が醍醐寺出身の真言僧であり、ここでも東大寺と真言宗との結びつき
がある。重源の後の二代目大勧進職は栄西、三代目が行勇と鎌倉の寺院と
繋がりのある僧が務めている。源頼朝が東大寺復興を支援したことと関連
があるのかもしれない。
❿創建・造営の僧Ⅱ ⓫伽藍復興の勧進僧
4.三千大千世界の蓮華蔵世界と鎮護国家(仏国土)
会津八一の歌に『みほとけ の うてな の はす の かがよひ に
うかぶ 三千だいせんせかい』という大仏讃歌がある。歌意は「大仏の
お座りになっている台座にある蓮華の上に描かれて、その輝きの中に
浮かびあがる三千大千世界であることよ」となる(⓬)。
(Ⅰ)三千大千世界とは
三千大千世界のことを蓮華蔵世界と言う。蓮の花(華)の中に海が広がり
海の中に島がある。その島に山(須弥山)が聳える。須弥山の上空には、
二十五層の天界がある。この蓮の花の世界を「小世界」と言う(⓭)。
「小世界」が1000個集まって「小千世界」となり、更に「小千世界」が
1000個集まって「中千世界」、「中千世界」が1000個で「大千世界」と
なる。即ち、大千世界とは1000×1000×1000=10億の小世界となる。
三千大千世界の「三千」とは「千が3つからなる」、「千の3乗」の意味
で、大千世界が3000あるという意味ではない。三千大千世界と大千世界
は同じものだ。
(Ⅱ)蓮華蔵世界
蓮華蔵世界の教主が毘盧遮那仏であり、お釈迦さまは毘盧遮那仏から派遣
され、小世界の人々を救済するために現れたとされる(⓭)。
(Ⅲ)華厳経の教え
「一即一切 一切即一(いっそくいっさい いっさいそくいつ)」とは、
「個が全体の代表であり、全体は個の集合体である」と理解した(⓮)。
例えていえば、個々の人間は、人類700万年の歴史を紡いだDNAを持つ、
人類の代表であり、人類は顔も考えも違う個性豊かな個々人の集合体で
ある。個を普遍性(共通性)の視点捉え、全体は多様性を包含する奥深い
眼差しを感じる。
良く似た言葉に「One for all all for one(一人は万人のために 万人は
一人のために)」がある。分断と自己責任論、そして自助を躊躇いも無く
口にする為政者がいる今日、「一即一切、一切即一」は砂漠にオアシスの
ような言葉だ。
「華厳」とは「雑華厳飾(ざっけごんじき)」「雑華厳浄(ざっけごん
じょう)」の略であり、「個性ある花が一緒に咲き誇れる世界」を現し
ている(⓮)。
(Ⅳ)廬舎那仏光背の化仏は?
蓮華蔵世界の教主が廬舎那仏であることは、先に触れた。東大寺大仏の
光背にある化仏は何だろうか? これは釈迦如来だ。廬舎那仏は釈迦を
生む仏と言われている。廬舎那仏から生まれた釈迦が光背に掛っている
状態と言える(⓯)。釈迦如来が小世界に現れる。
⓮華厳経の教え ⓯大仏の化仏
(Ⅴ)蓮華蔵世界の仏国土
741年に国分寺、国分尼寺の詔が発せられた(❹)。総国分寺としての
東大寺、総国分尼寺としての法華寺を中心に据え、蓮華蔵世界の仏国土
を創造しようとした。
上総国分僧寺(千葉県)や肥前国分僧寺(佐賀県)についての説明文
(⓰)に記載の通り、国分寺では釈迦如来、国分尼寺では阿弥陀如来
を本尊としたとある。
東大寺に毘盧遮那仏、全国68か国の国分寺には釈迦如来が安置された
ことになる(⓱)。正に蓮華蔵世界の仏国土、鎮護国家の出現となった。
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